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2022年2月11日 金曜日

私のHAWKは昔からロケットカウル

ホンダから発売は噂されているHAWKにはロケットカウルが装備されたレーサースタイルになるとか。

名前にこそ昔のホンダの名車「CB400Fヨンフォア」と「CBX400」のつなぎにあった「HAWKホーク」の名称を使うようですが、二気筒エンジン構成という以外はまったく類似点が無いように見えます。

私は1970年代の終わりから二台のHAWKに乗っていました。

最初のホークはこれで東京から三週間かけて関西から四国九州の野宿ツーリングをした事もある長距離ツーリングの相棒でした。

そのために最終的にはツーリング荷物の積載がしやすいように大きなハードタイプのサイドボックスとリアキャリアを搭載。
写真ではわかりにくいですが方位磁石とメーターを見やすくするランプ、コインホルダーなども付けていました。

二代目のHAWKは路線を変えて走りやすさを求めてまずはハンドルをコンチハンに交換。
さすがに一文字にまではしませんでした。

そしてこのハンドルに似合うようにロケットカウルを装着。

塗装とHONDAロゴは自分で行いました。

ミラーはナポレックスの角型に、またウインカーはZ2タイプと言われていたものに交換してあります。

キャリアやサドルバッグなども付けていません。
荷物を積む時はコロナのタンクバッグでしたね。

この写真ではまだカウル内のメーターのカスタムまではしていなかった状態です。



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2021年12月2日 木曜日

今日12月2日は私の誕生日です。

ここで「メカ好きおじさんとはこんな人」の自己紹介。

子供の頃から工作好きでいろんなモノを作ってきました。

これらは50年以上前に作ったものや作り方も紹介している和紙人形です。

電気工作の得意だった父親の影響で4歳くらいから秋葉原のパーツ街に通いハンダゴテを握っていました。

小学生の頃の愛読書は「模型とラジオ」でしたね。

電気好きが講じてアマチュア無線の免許を取得して一時は夜中までラウンドでラグチューしてました。

今はスマホがあるのでスキー場でもハンディー機やモバイル機を使うことも無くなりましたね。

高校時代はオーディオにハマりアルバイト代はほとんどコンポの購入に消えていました。

パソコンが普及してからはアキバオタクという事もあり、自作やオーバークロック、水冷機などいろいろやって今でも自宅に十数台のPCがあります。

自宅サーバー機もリカバリー機も含め4台、ブログやライブカメラ、ファイルサーバーやメールサーバーなどを運用しています。

写真や動画の編集やレザークラフトの型紙制作などをやっています。

モノ作りは工作だけでなく手芸も好きでクルマのシートカバーも採寸して作っていました。

そういえば妹の家庭科の宿題は、家で私がやっていましたね。

それが今のレザークラフトの趣味につながっていると思います。

ハーレーダビッドソンに乗り始めた時に奥さんからプレゼントされた革のロングウォレットに触発されて、自己流で始めて12年になります。

ウォレットやスマホケース、レザーベストなども作りますが、ミニチュアサイズのランドセルやライダージャケットなども型紙から起こして作るのが好きですね。

まあ、最初に作ったのはレザークラフト用のレーシングポニーでした。

バイクと言えば、20歳の時に初めて原付に乗りました。

それまでまったく興味はなかったのですが急に自転車が欲しくなり、でも自分で漕ぐのは大変そうなのでエンジン付きがいいかなという安易な考えでした。

でもすぐにその魅力にハマってしまい納車3か月後には寝袋だけ積んで東京から野宿しながら2週間で東北一周し、その翌年には中型二輪を取って関西から四国九州を3週間野宿の旅をするまでになりました。

ハーレーに乗り出したのは50歳の時で、それまで大型バイクは自分には無縁だと思っていましたがたまたま冷やかしのつもりで行ったディーラーで今のハーレーに一目惚れ、その日の内に契約してしまいました。

と言っても大型バイクの免許はなかったのでそれから教習所通いとなったのです。

今のハーレーは納車の時は別モノのようにカスタムしましたがそのほとんどは自分でやってきました。

このバイクになってから走るのはソロか奥さんとのタンデムがほとんどとなり、それまでの日本一周で回っていなかった北海道ツーリングへも6回行ってきました。

自動車の方は最初に乗ったのがイメージ先行で黄色いワーゲンビートルでその時に知人に誘われたキャンプの影響で初代パジェロに乗り換えてからはほとんどクロカン4駆ばかりで現在のジムニーに至っています。

カスタムや整備も出来る範囲でDIYでやっています。

最近制作したものと言えば、15cm角で手の上に乗る鉄道模型の極小レイアウト、パイクです。

初めてのジオラマづくりでしたが地形づくりや樹木の植え方だけでなく鉄道模型のカスタムや自作などいろんな楽しみが味わえました。

バイクにクルマ、クラフトにパソコンオタク、アウトドアにインドアにといまだに趣味多きメカ好きおじさんも今日で64歳になりました。

出来ることならいつまでもこれらの趣味を続けていきたいですね。


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2021年10月11日 月曜日

誕生から50周年のホンダベンリーCB50の思い出

ホンダのバイクで脈々と受け継がれている名称の「CB」。

その名前の由来は所説あって、「Motor Cycle」と「CLUB MAN RACE」から取ったという説やC92の仕様がCA92だったので次期モデルはCBにしたという説、ほかにも「クリエイティブ・ベンチマーク」という説もあるようです。

いずれにしろホンダのバイクのイメージたるCBを名乗る最小モデルが500cc原付のCB50です。

その「ホンダベンリイCB50」が初めて世に出たのは昭和46、1971年6月1日のことでした。

当時の原付といえば2サイクルが主流で、CB50は新設計の4サイクルOHC直立エンジンを搭載して5段ミッション、7リットルの容量を持つタンクからシートにかけての流れうようなラインは、いかにもバイクというスタイルでした。

私がはじめてバイクに乗ったのは今から43年前の1978年です。

当時20歳だった私は自転車を買おうかと思っていましたが、漕いでいくのは大変かなと思いエンジンのついている二輪車を買うことにしました。

一番簡単に免許が取れるのが原動機付自転車だったので、本屋で原付免許取得の本を一冊買って丸暗記して試験場で受けてきました。

めでたく免許は取れたので買うバイクを選んだのですが、なんとなく「バイク=ホンダ」というイメージがあり、色は白バイから想定して白にしました。

今は原付というえばほとんどスクーターしかないような状況ですが、当時はギア付きで大きなバイクと同じようなスタイルのモデルが各メーカーから出ていました。

その中で選んだのがホンダのCB-50でした。

原付免許は取ったもののバイクなど一度も乗ったことはなく知り合いのバイク屋から自宅まで、クルマがビュンビュン走る都内の道をギアチェンジなる動作をしながら帰ってくるなど、おそろしくて出来そうにありませんでした。

ちょっと情けないですがバイク屋さんに頼んで自宅までCB50を軽トラで運んでもらいました。

しばらくは自宅の周りだけをウロウロしてクラッチとギア操作に慣れる練習をしていました。

当時のCB50のカタログがこちらです。

表紙のコピーは「発見する小さな旅へ誘う青春の足。CB50JX-1」とありました。

このカタログには初代にああった「ベンリー」の名前は出てきていませんが、その次のモデルのカタログ(上の写真では黒いCB50)には「BENLY」としっかり書かれていました。

最初は近所の買い物に出かける時や、昔からの趣味だった電子パーツなどを買いに秋葉原に行くのに使っていましたが、このカタログにあった「青春の旅」という言葉がなんとなく気になってきました。

それまで一人旅とかはしたことがなかったし、キャンプといえば小学生の頃に父親とその友人に連れられて1、2度やったことがあるだけでした(当時のテントは黄色い三角テントでしたね)

そのうち「旅」とまではいかないまでも、なんとなく「遠乗り」今でいうツーリングに出るようになり、奥多摩有料道路には月に数回は走りに行っていました。

いまでこそあそこは無料の周遊道路になっていますが当時は料金を払っての有料道路でした。

納車された際にはリアキャリアと左側のミラーだけをオプションで注文してありました。

ミラーは右側だけが標準装備で左側にはついていませんでしたが、今はどうなんでしょう。

早い時期にリアの左右には、当時バイク用品のメッカだった上野のバイク街に行ってハードケースを買ってきて自分で取りつけをしました。

奥多摩に行った時の写真ですが小河内ダムはすでに出来ていましたが1978年当時、管理事務所の一部はまだ工事をやっていました。

現在の同じ場所の写真です。

乗ってるバイクの排気量は30倍以上になりましたね。

奥多摩に行くといつもこの駐車場で休憩してダムを眺めていました。

学生だったので走りに行くのは主に日曜日でしたので週末の奥多摩有料道路はバイクやクルマがいっぱい来ていました。

軽いバイクだったので砂利道や未舗装路などにもどんどん入って行け、行動範囲が広がりました。

ヘッドライトケースの上にちょこんと乗っている白いボールはコンパス(方位磁石)です。

この頃はGPSナビなんてものはありませんから、この磁石で東西南北を知り地図を頼りに走ったものです。

その地図をすぐに見られるように、そしてカメラや財布などの貴重品を目の届くところに置いておくためにタンクの上に乗せる「コロナのタンクバッグ」は必須アイテムでした。

これのお陰でどこかに行った時にもちょっとバイクを停めてすぐに地図を取り出して確認することが出来るようになりました。

ちなみにタンクに留めている黒いゴムベルト、当時はタイヤをカットしたものが使われていたようです。

ツーリングに出かける時の必需品、フィルム式のポケットカメラですがまだこの頃はたまに白黒フィルムも使っていました。 時代ですね。

この写真ではミラーが純正の丸形メッキのものから、当時流行っていたナポレオン製の角型のものに交換していました。

コンパスも白いものから黒いタイプに変更して、有料道路で料金を払う時に小銭がさっと取り出せるようにコインホルダーを付けていました。

ホルダーの下はクリップになっていて通行券などのチケットがはさめるようになっていました。

このCB50はとにかく燃費が最高によかったです。

どんなに元気に走ってもリッター60km/lを下回ったことはありませんでした。

8.5リッターのタンク容量を生かして無給油で500キロ近く走れました。

そして1978年7月、バイクに乗り始めたのが春4月でしたがその3か月後生まれてはじめて野宿での一人旅に旅立ちました。

一人旅も野宿旅もまったくの初めてです。

行先は父が単身赴任していた長野を経由して、大学の友人達が合宿している斑尾に合流、それから新潟で日本海に出てそのまま海岸線を北上、青森まで行ったら今度は太平洋岸を南下して東京まで帰ってくるという、当時の私には壮大な計画でした。

荷物はリア左右のハードケースとタンクバック、それに新しく買った寝袋と大きなワンショルダーバッグ、寝袋とバッグは雨に濡れても大丈夫なようにバイクカバーにくるんでキャリアに固定しました。

行きは父親の運転する自動車に先導してもらい長野まで行きそこで一泊したあと、翌日に斑尾高原の友人達と合流しました。

この写真は飯山駅で友人が撮ってくれたものです。

当時は原付はノーヘルでもOKだったので駅の中を走っていました。

半袖、手袋なしは今からは考えられないほど軽装ですね。

友人達と別れた後は新潟のお墓参りをしてから秋田まで行きました。

これは秋田駅のロータリーで野宿した写真で、写っているライダーや自転車の旅行者、リュックを背負った初対面の方々と駅前の居酒屋で前の夜に飲んだ翌朝です。

さらにコンパスと全国地図だけを頼りに北を目指し、とうとう青森駅まで50ccの原付でやってきました。

ここではリンゴを食べて青森を実感していました。

この時、一緒に駅で野宿したライダーから「一緒に北海道に行ってみないか」と誘われたのですが、残念ながら少し喉がヘンだったので断ってしまいました。

今にして思えば43年前の1978年のこの時に北海道を走っていれば、今と違う北海道ツーリングが出来たものだろうと残念です。

当時の北海道ではまだまだ未舗装路や未開通の道が多く、それでもこのバイクなら怖いもの知らずで走って行けたと思います。

これは友人のオレンジ色のCB50と一緒に江の島に行った時の写真です。

こうして、自転車代わりの「近所への足」というつもりで買った原付が、43年経った今でも乗り続けている私のバイクライフの原点となりました。

そのCB50ですが翌年に自動車の免許を取ったあとにさらに中型自動二輪免許を取得して、同じくホンダのHAWKへと乗り換えていくことになったのです。


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2021年5月23日 日曜日

1970年代ツーリングの必需品2、コロナのタンクバッグ

前回紹介したUS ARMY の振分けサドルバッグと共に、当時ツーリングライダーの必需品だったのがタンクの上に乗せる「タンクバッグ」でした。
そしてそのほとんどがコロナ製のモノで、モスグリーンの帆布製のものと合皮の黒いモノがありました。

固定方法はタンクのベースとなるパッドを、タンクの下にゴムバンドを通して固定してそこにタンクバッグをバックルで留めるモノでした。
バイクから離れて歩き回る時はカンタンにタンクバッグを外せて肩から掛けるベルトもあったのですごく重宝していました。
タンク下を通すゴムバンド、当時はたしか古タイヤを切ったもののようでした。

運転中は目の前のタンクの上にバッグがあるので財布やカメラなどの貴重品もすぐに確認出来るし、なんと言ってもタンクバッグの上面は透明の大きなポケットになっていたのでここに地図帳をはさんでおけば走りながらでも地図が確認出来ました。
ナビなど無い時代にはこの地図と方位磁石だけが頼りでした。

私が東京から二週間掛けて東北地方を一周して来た時もコロナのタンクバッグを使っていました。
下の写真でわかりにくいですが、ヘッドライトケースの上にチョコンと乗っている白いボールのようなモノが自動車用のコンパスでした。

その後中型バイクと大きくなったのでタンクバッグも同じくコロナの黒の合皮製のモノに買い替えました。

下の写真は四国高知でたまたまフェリーが一緒になった三人で民宿の布団部屋で雑魚寝した翌朝に撮ったモノですが、1970年代に旅するライダーはみんなタンクバッグとリアキャリアの上の大きな荷物がお揃いでしたね。
(たまたま高知に渡った日が阿波おどりの祭りの日で、こんな時に飛び込みで泊まれる宿は無くて、地元タクシーの運転手さんが交渉してくれてなんとか民宿の布団部屋に素泊まり出来ました)

1980年に入りオフ車に乗ってからも荷物の多い泊まりツーリングではタンクバッグを使っていましたが、

オフロードだけを攻めに走る時はタンクではなくリアキャリアに乗せていました。

30年前にレーサーレプリカが流行っていた頃にはタンクバッグもコロナ以外からもいろいろ発売されていました。
固定方法も従来のようなゴムバンドではなく、マグネットでタンクに固定するのが主流になっていました。

今のハーレーに乗る前の一ヶ月だけ乗っていたドラスタですが、この時は昔買った同じタンクバッグを乗せていました。
ただタンクの上にスピードメーターのあるアメリカンタイプのバイクだとタンクバッグは不便でした。

そしてこのコロナ製のタンクに乗せるツーリングバッグですが、バイクブームの衰退と共に生産が終了してしまっていました。

ところがその後、有志の方々が集まってこのコロナ製と同様のタンクバッグの復刻をされて現在でも手に入れることが出来るようになっています。
素晴らしいことですね。


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40年前のツーリングの必需品だったUS・ARMYのサドルバッグ

今どきの長距離ツーリングではシートバッグやハードタイプのサドルバッグが主流となっていますね。
私のハーレーには最初から革製のサドルバッグが付いていました。

でも今から40年ほど前、1970年代のツーリングではハードタイプや革製ではないサドルバッグが多く使われていました。
素材は合皮や帆布製で、多くのバイクには「US ARMY」のマークの入ったバッグがタンデムシートに乗っていました。

振り分けバッグになっていて、タンデムシートの下にベルトで固定してシートの上に載せていました。
そしてこのサドルバッグは真ん中を持ち上げると取っ手が付いていてそのまま持ち歩くことも出来る便利モノでした。

私が東京から三週間の関西・四国・九州のツーリング行く時にもこの黒い合皮製の「US ARMYのサドルバッグを使っていました。
これだけ長期間に渡るツーリングでも、このサドルバッグとリアキャリアの上に載せたバッグと赤い寝袋だけで走りつづけることができました。

長崎を訪れた時にたまたま一緒になったライダーのGL400にも頒布製のサドルバッグが乗っていました。

何度も長距離ツーリングを繰り返していると、雨や盗難対策も考えるようになってサドルバッグからハードボックスタイプに交換していました。
鍵もかかり左右の収納力も大きくなり、さらにストップランプやウインカーなども装備されていました。

そしてこの写真でもかなり目立つもう一つのアイテムが「リアフェンダーに付けた泥除け」ですね。

今見ると恥ずかしいほど大きなものですが当時は雨の中のツーリングでリアタイヤが巻き上げたドロ汚れで荷物が汚れないようにするのと、当時としては「ファッション」「おしゃれ」のつもりだったんでしょうかね。

これも40年前の懐かしいツーリングバイクの思い出です。


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2021年5月18日 火曜日

40年前の奥武蔵グリーンライン刈場坂峠ツーリング

この頃はオフ車、HONDA XL250S に乗ってオフロードばかり走っていたな。



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2020年3月18日 水曜日

ツーリング中に出逢った日本各地の人々

最近の私のツーリングはソロかタンデムがほとんどです。
以前は友人たちや職場の仲間、ハーレーのディーラーや免許を取った教習所のツーリングクラブのメンバーと走ることもありましたが、やは自由気ままに走ったり景色を眺めたり休憩したりしたいので大勢で行くことは減ってしまいました。

それでもツーリング先で初めての方に話しかけたりお声がけいただくことは楽しいですね。

ソロだとお声がけされることも多い一方、やはりタンデムで回っている時は相手の方も遠慮してか話しかけてくることは少ないですがそれでも北海道ツーリングでは思わぬ出会いもありました。

2016年の北海道タンデムツーリングで「道の駅風Wとままえ」で休憩して日帰り温泉に入り、周りを散策していた時に105周年記念カラーリングのハーレーの方からお声がけいただきました。
ずっと前に私が東京モーターサイクルショーで講演した時からブログやツイッターでやり取りしていた「モモちゃん」さんでした!
ツイッターで見て同じ時期に北海道に来ていることはわかっていましたがこんな場所でお会い出来るなんてうれしいかったですね。

「北のにしん屋さん」で昼食を取った時はツーリング中のライダーも大勢来ていました。
食事が終わって出発する準備をしていたら少し離れたところに停まっていたライダーの方がやってきて声を掛けてきました。
「メカ好きさんですよね!?」
ブログを見ていただいていてこっちの方に来られていると知って、載っていたハーレーを見てお声がけいただきました。
うれしくなって記念撮影させていただきました。

道道66号線でニセコパノラマラインに入る頃、雨がポツリポツリと来ていました。 さらに進むと雨が強くなってきましたので道端にバイクを停めてレインウェアを着込みました。
奥さんと二人レインウェアを着て出発準備をしている時に、反対車線に一台のジムニーが停まり運転されていた方が降りてきました。
そして私達の方に近づいてきて、「メカ好きおじさんですよね!? こっち方面に来ていると書いてあったのでもしかしてと思って声を掛けました。」
「探してきた訳ではなくて今日は自転車のレースがあるのでそれを見に来たんです!」
雨の中わざわざクルマから降りてきてお声がけいただけるなんてうれしいです。

ドーミーイン旭川で朝食を食べている時に近くの席に見覚えのある方を発見!
新潟のフェリー乗り場で「ブログ見てますよ」お声がけいただいたCB1100のライダーさんでした。
北海道を旅する方の周るルートや泊まる宿も似てくるんですね。
ホテル横に停めた私のバイクの横に停めてあったのがこのライダーさんでした。
お互い、安全運転で楽しみましょう!と挨拶してお別れです。

ここからは昔のツーリングでの「出会い」です。

41年前1979年の四国九州野宿旅の時です。
フェリーに乗って淡路島から生まれて初めての四国、徳島に到着しました。 徳島のフェリー港に着いたのは夕闇もすでに暗く暮れかかった時刻でした。

この時フェリーから降りたバイクは三台。 ホンダCB750KとSR400、そして私のホークです。
もう日も暮れて暗くなってきたので野宿する場所を探すのも大変そうでした。
それに一緒になった二人のライダー、名古屋のCB750Kさんと大阪のSR400さんと一緒にどこかに泊まろうという事になりました。
しかしちょうどその日は徳島県最大イベント「阿波踊り」の真っ最中の日、当然こんな日のこんな時間に空いている宿はなく、途方にくれるライダー三人。

「こんな時は地元のタクシーの運転手に聞くのが一番。 どこか空いている宿はないか、それに交渉までお願いするのがいいだろう」という事になって港に停まっていたタクシーにお願いします。 何軒か電話してくれるもほとんど全滅状態。

そんな中ようやく一軒だけ「部屋は空いてないけど困っているようだから布団部屋でよければ泊まらせてあげるよ」と言ってくれた民宿が見つかりました。
小躍りした私たちはタクシーの後にバイク三台繋がって隣の小松島港の民宿「みはらし」さんに泊まることが出来ました。

当然夕食など用意してもらえないので、ライダー三人でその辺の定食屋に繰り出し、はじめてあったばかりの人間ですが、そこは三人とも「バイクでの旅好き」という共通の話題で夜がふけるまで盛り上がっていました。
結局用意してくれていた布団部屋にもぐり込んだのもかなり夜が更けてからだったような記憶が、、、あまりありません(笑;
翌朝、それぞれ向かう方向がばらばらの三人、三台。
一緒に写真を撮ってお互いの安全を願いながら手を振って走り去っていきました。

当時のツーリングバイクには、今のようなハードのバニアケースを乗せている人はほとんどいなくてバッグに荷物を積んでいました。
そのかわりコロナのタンクバッグは定番でしたね。

長崎市内観光の途中からは、浜松からツーリングでGL400で来ていたシバタ君とずっと一緒に回りました。
一緒に回る人がいるのも楽しいし、ついつい写真が多くなってしまいました。
「長崎来たからには本場ちゃんぽんが食べたい」という彼のリクエストで、二人で長崎ちゃんぽんのお店に入りました。
この時の長崎ちゃんぽんが私の初ちゃんぽんであり、実はこの信州・関西・四国・九州ツーリングで唯一食べたご当地グルメだったのは、恥ずかしくてとてもブログには書けません。。。ははは
市内観光が一通りすんだところで彼に別れを告げ、佐世保を通って一気に福岡まで行きました。

鳥取砂丘でライダーブーツの中を砂まみれにして登って雄大な風景を堪能した後、日本海岸沿いに沿って走る事にしました。
その途中で出会った旅人、ヤマハGXクンです。

そして何度も登場した古い秋田駅の写真です。
秋田の駅で野宿した時に、駅に居たライダーやチャリダー、カニ族の人たちと駅チカの居酒屋でそれぞれの旅の自慢話で盛り上がりました。
「自分の足だけで日本各地を歩くのが一番思い出に残る」という大きなリュックを背負ったカニ族さんたち。
「いやいや自転車を畳んで電車で輪行も出来る自転車の方が行動範囲も広くていろんな場所に行ける」チャリダーさん。
「でもやっぱり風を感じて日本中に行けるバイクが最高!」と私達。。。
手段はともかく「野宿しながら日本各地を自分の目で見て感動する」という思いは同じという結論に。
この写真はその翌朝、出発前のものです。

出会いではないですが、バイクで日本各地を回っている時には地方にいる友人知人宅に立ち寄ることも多かったですね。
地元近くに着いてから電話をしてこれから行ってもいいですか?と聞くとみなさんびっくりされました。 「こんなとこまで一人でバイクで来たの?」
今と違ってナビやスマホなど無い時代、住所と全国地図だけを頼りにお宅訪問です。
これは大阪の親戚を訪ねた時です。

ほかにも旅人たちではない「出会い」もたくさんありました。

九州鹿児島を走っている時、台風にあいました。
さすが雨の中、屋根があるところでも湿っぽいのは嫌なので野宿をあきらめ、ユースホステルに泊まることにします。 電話ボックスにあった電話帳で探して今晩泊まれるか確認したところOKとの返事をいただきほっと一安心。
今のようにスマホがあればもっと簡単に検索して予約確認出来たでしょうね。
当時はライハ、ライダーハウスなんてものはなかったので安く泊まろうとすると民宿かYHを探すしかなかったと思います。
実は、この時がYH、ユースホステルも初めての経験でした。
システムとしては会員だけが泊まれるYHと会員でなくても泊まれるYHがあるというのはバイク雑誌に載っていたツーリングレポートで読んで何となく知っていました。
桜島ユースホステルは会員でなくてもOKのところだったのが幸いでした。。
YHは基本的には毛布だけは持参が原則ですが、当然野宿の私は持っていませんので、そんな人は有料で毛布を借りて泊まりました。
遅く入ったので夕食は無理でしたので、外に出て教えてもらったお店まで行って簡単な食事を取ることができました。
YHは基本的に複数人での相部屋、原則男女別で今はわかりませんが当時はYHによっては夫婦でも男女別の部屋になったそうです。
夜はミーティングがあって自己紹介、でもどんな事をしたかほとんど覚えていません。
その後はパンク修理と凄い雨で疲れていたので早めに休んでしまいました。

これも何度かこのブログに登場した九州の折口駅
この日の夜、寝袋を広げて休む準備をしているとこの無人駅に地元のおじさんが近づいてきた。
「ココで寝泊まりされては困る!」とかなにか注意されるのかと身構えていると、むっつりした顔で「どこから来た?何してる?」と聞いてきました。
そう言われても最初に思った事は、「よかった!この人は言葉が通じる!」(鹿児島で地元のおまわりさんに声をかけられた時は方言が聞き取れませんでした)
「東京からバイクで来て野宿の旅をしています。 今晩はこの駅で泊まらせてもらうつもりです」と言うと、
「それならウチに来い。寝るとこも食事もある」と言ってくれました。
ちょっとびっくり、でも凄くありがたい申し出でしたが、当時の私はまだ他人の家にズカズカ上がりこんで泊めてもらうほどの度胸はなかったのでお礼を言って辞退してしまいました。
おじさんはしきりにすすめてくれましたが、しまいに「まあ気が向いたらおいで」と言って帰って行かれました。
今だったらホイホイ喜んでズカズカ上がり込んで食事に甘えてしまい、いっぱいお話したかったですね。
そうできなかったこれもこの旅の残念な思い出です。
でもやはり旅をしていると人様の親切がホントに実感出来てうれしいですね!


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2020年3月13日 金曜日

ツーリング中にパンク三回

と言っても40年以上昔のことです。

バイクに乗り始めて2年め、前の年に東北一周したのでこの年は東京から西、中部・近畿・四国・九州・中国地方を回ってきました。
もちろん今回もテント無しで寝袋だけキャリアに載せての野宿のソロツーリングです。
この乗っていたバイクはホンダのHAWKです。

東京から一旦長野を周り、友人たちの合宿に参加した後、別れて京都、神戸と回りました。
フェリーで四国に入りさらに九州に渡って宮崎市を出てしばらく走っているとハンドルがブレてきて振動が大きくなりました。
すぐに路肩にバイクを止めてバイクを点検すると後輪がパンクしていました。

ガソリンスタンドのあるところまで騙し騙し走ってなんとかたどり着いて、お願いして隅の方の場所を借りて後輪を外してみました。
実はそれまでパンク修理はした事がなかったのですが、雑誌などでやり方について一通り頭にいれてありました。
メインスタンドを立てて、後輪を固定しているボルトを緩めてチェーンを外し、重たいタイヤを降ろして床に置いてタイヤレバー3本を差し込み、ビートをリムから落としてチューブを取り出しました。

タイヤレバーや携帯用の空気入れはツーリングの時に持ってきていました。
中のチューブの口金のところに大きな亀裂がありましたので、持っているパンク修理キットだけでは修理は不可能なようでした。

ツーリングに出てから12日目、1979年の8月15日ちょうどお盆の日でした。

スタンドの人に相談してみましたが、当然バイク用のしかもサイズがホーク用の物などあるわけがありません。
近くにバイク用品店などもないし運の悪い事に今日は8月15日、お盆でお店はほとんどやっていません。
途方にくれていると見かねたスタンドのおじさんがわざわざ軽トラに乗せてくれて街中まで走ってくれました。
何軒か休みの店ばかりであったが、ようやく一軒だけ街の自転車屋さんのようなところで求めるサイズのチューブが見つかりました。
予備の分も含めて前輪・後輪用のチューブを購入する事が出来たのは非常にラッキーでした。

スタンドのおじさんも自分の事のように喜んでくれました。
お礼を言って車のガソリン代を出そうとすると頑なに固辞され、「困っている時はおたがいさまだから」と言って笑っているだけでした。
やっぱり旅の途中で出会った人達はいい人が多いと感じた場面でした。

スタンドに戻って自分でチューブ交換をして再び走り出す事ができました。

これが最初のパンクでしたが、再度パンクしてしまいましたが二回目の修理はチューブにパッチを当てるだけで修理完了です。

そしてツーリング18日目8月21日、九州から本州に戻り日本海側を走って舞鶴を過ぎたあたりで、今回3回目のパンク。

まあ慣れたもんだが、作業する場所を探してダマシダマシバイクを走らせました。
ガソリンスタンドを見つけ、「店舗の片隅でパンク修理をさせて欲しいのでバイクを停めさせて欲しい」と申し出たが、答えは「だめだ!」 「修理は自分でやるから場所だけ貸して欲しい」とお願いしてもダメと剣もほろろ。
これ以上頼んでも仕方ないし、お願いしているのはこちらなので別のバイクを停められそうな空き地を探してパンク修理を行いました。

今の時の3週間のツーリング中、パンクは前輪1回後輪2回の計3回経験しました。
チューブ入りタイヤのパンク修理は、チューブレスより手間がかかります。
当時はまだバイクのホイールといえばスポークホイールが中心で、ホンダはコムスターホイールという鉄板をプレスしたものをワイヤーの代わりに使っていたものです。
バイクの国産市販車で初めてキャストホイールを採用したのは、1978年6月にヤマハが発売した原付き、RD50SPが最初だったと思います。
キャストホイールならチューブレスに出来て修理も自動車と同じゴムキャップに接着剤を塗って押し込むだけで出来ます。
まあそれでもタイヤに大きな亀裂が入ったら、タイヤごと交換するかチューブを入れる必要がありますね。
でも今はあまりバイクでのパンクは聞かないようです。
昔は未舗装路が多くて尖った砂利があったり、道路に釘やネジなどが落ちていてそれが刺さる事がたまにありました。

タイヤ交換はタイヤレバーでタイヤからチューブを引き出して穴のあいた場所を見つけてパッチをあてて修理し、再度チューブをタイヤに組込みビートを入れ指定圧まで携帯しているハンドポンプで空気を入れる、文字にするとこれだけ(結構長いかな)だが、実際の作業は30分以上かかるし、力もいります。
まして前輪はメインスタンドを立てた上に前輪を浮かせるために後輪に重しを乗せ、タイヤを外す必要があるので余計に手間が掛かります。。

それでも国産中量バイクだから出来るのであって、今乗っているハーレーでは絶対無理!
そのためにハーレーの純正タイヤは、多少空気が抜けても少しは走れるようにタイヤのサイドがかなり固く出来ているそうです。


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2020年3月7日 土曜日

ソロツーリング時の野宿キャンプで怖かったコト

近年はソロキャンプが人気でドラマやアニメ、テレビでもよく見られますね。
特にひと気の少ない冬の間のキャンプを好むキャンパーも多いようです。
さらには女子キャンパーも増加しているとか。

オジサンとしてはそんな状況で一人でキャンプをして危ない目に合わないかなとちょっぴり心配になります。

私が40年以上昔の学生時代に、ソロでバイクに乗って青森から鹿児島まで日本中を回っていた時は、テントを使わずに寝袋を使って野宿をしていました。
寝ていた場所は、駅だと青森駅や秋田駅、京都駅などといった大きな駅から地方路線の無人駅など。


 ↑ これは秋田駅で寝た時の翌朝で、前の晩は写っているライダーやチャリダー、カニ族の方と飲んでました。


 ↑ こちらは鹿児島県の無人駅で寝た時です。

他にも神社やお寺、公園(広島の平和記念公園も寝たなあ)や街道添いの無人のコインスナックなどいろいろでした。

当時、そんな場所で野宿していると多少は怖い目にあった事もあります。

大きな駅で寝ていた時は夜中に鉄道公安官の方から質問を受けた事は何度もありました。 ターミナル駅で寝ていた時(「ステーションホテル泊」笑い)は、出勤ラッシュが始まる前、4時前には洗顔を済ませて出発しました。

無人駅で寝ていた時は、夜中に視線を感じて寝ているベンチで目が覚めたら野良犬がこちらをのぞき込んでいたとか。 まあ地方の無人駅だと地元の方が夕食に誘ってくださった事もありますけど。

街道添いのコインスナックだと、夜中に暴走族の集団がやってきて起こされた事もあります。

最初に書いたようなキャンプ場で寝る場合なら、こんな事はないでしょうけどそれでもイロイロ気になりますね。

私も結婚してからは一人でバイクでの野宿旅をする事はなくなって、30数年前に流行ったオートキャンプにハマりましたね。

最初に友人家族と黄色いワーゲンビートルでキャンプに行った時はまだテントを持っていなくて、友人のご主人と二人でランクルの車内で寝ました。

その後アウトドア用に初代パジェロに乗ってからは少しずつキャンプ道具を集めて楽しんでいました。

最終的には大きなロッジ型テントにコールマンで一式揃えていました。

現在はハーレーでタンデムツーリングに出る時は泊りがけでもキャンプではなくホテルに泊まってばかりです。
でも夢としては、一度は北海道を1週間とか期限を決めずに昔のように自由気ままに好きな日数だけキャンプしながら回ってみるのも楽しそうですね。 まあ体力的に耐えられるかどうか心配ですけどね。


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2020年1月10日 金曜日

原付きで行った東北一周2週間の野宿ツーリング

今年、東北ツーリングを計画しているのは計画しているのは書いたとおりですが、今から42年前の1978年に一度東北一周のツーリングに行ってきた事があります。 その年の4月に初めてバイク(原付)の免許を取って4ヶ月も経たない内に生まれて初めてのバイクでの野宿ツーリングを決行しました。

この記事はその時の事を、12年前の2008年に書いたものを一部手直ししたものです。

今回は「原付50ccバイクCB-50JX1で行った東北一周のツーリング」の巻。

バイクに乗り始めてから、オートバイ雑誌をいろいろと読んだ。 「オートバイ」「モーターサイクリスト」「ヤングマシーン」「750ライダー、とこれはコミックか」。。。
雑誌には読者が各地に旅行に行った時の旅行記=ツーリングレポートが必ず載っていた。
それまでの旅行と言えば家族で電車で行くものか、修学旅行くらいしかしていなかった自分だが、「がんばればどこへでも行ける魔法のじゅうたん」を手に入れた今、自分もどこかに「旅」をしてみたくなった。

どうせ行くなら野宿がいい。
キャンプ用品はなにも持っていなかったからとりあえず赤い寝袋だけ買った。 原付のキャリアに積めるように少しフンパツして小型になるものを選んだ。

ルートについては、
1.当時父が長野に単身赴任しており、車で実家に戻っていた父のクルマと一緒に長野まで走る。
2.次に長野で大学のクラブ仲間が合宿をしているのでこれに参加。
3.その後は新潟で日本海に出て、秋田-青森と北上して岩手-宮城-茨城と回って東京まで戻ってくるルートに決定した。

かかる費用は、合宿参加のペンション代のほかはガソリン代と食事代だけの予定だ。

日帰りではない初めての泊まりのツーリング、荷物はどれくらい持って行けばいいのかよくわからず積めるだけ積んでいった。 50ccの小さなバイクにリアのキャリア、左右サイドにはハードボックスを付けたけど容量はあまり入らない。
タンクバッグの中は貴重品や地図、サイドバッグの中はバイクの修理道具や雨合羽、リアキャリアに積んだのは、防水対策&タープのかわりに使うバイクのボディカバーに包んだ寝袋と着替え。これで全部。

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当時はカーナビなんてものは無く、ルートを確認するのはメーターの上に付けたコンパス(方位磁石)と全国道路地図が頼りです。 これだけで方角を決めて走り、留守宅の家族への連絡は公衆電話のみ。 原付だから高速道路には乗れないけど有料道路を走る際には小銭が必要です。 これもETCはないのでコインクリップをハンドルに付けて対応していました。
今のツーリングと比べるとずいぶん不便に思えますが、この頃はこれが当たり前のことでした。

gentukinojyuku01.jpg

初めて原付に乗り始めてから3ヶ月たった、1978年8月1日、リアキャリアに荷物を満載して父の運転する車と一緒に自宅を出た。
原付の制限速度に合わせてもらって父の車の前をR254号線で長野を目指す。

cb50jx1-19780801r254.jpg

天気は晴れ。
初めて関東地方を超えての遠出となった。
下の写真は碓氷峠あたりかと思います。

なんとか長野県佐久の父の赴任先に着き、父と祝杯。

翌朝、父に見送られ斑尾高原で合宿している大学のクラブ仲間のいるペンションを目指す。
国道117号から斑尾山を登るのだが、ふもとの飯山駅に来るだけでも50ccのエンジンには相当きつい。 雑誌で読んだのだが、空冷エンジンをより冷やすにはエンジンのフィンの面積を増やせばよいのでアルミの洗濯バサミを付けると良いと書いてあった。(これは多分効果はあまり無いでしょう)
そのとおり実践していたが、エンジンの熱ダレは厳しく足元が異常に熱い! 「斑尾山に登る前にこれはなにかでエンジンを冷やした方がいい」と勝手に解釈して、エンジンに水をかけて冷やそうと思った(良いコはマネしない事) 水がないので仕方なく自販機でジュースを買ってこれをエンジンやエキパイに掛けた!!(良いコは絶対にマネしない事) ジュー!と音とともにエキパイが黒くなってしまった! 水と違ってジュースには糖分がある。それが焦げ付いてエキパイやマフラーを焦がしてしまったのだ。 なんということか! 熱くなったエンジンを水で急に冷やすのも良くないが、ジュースは絶対に止めた方がいい。 経験者が言うのだから間違いない。 それほどひどくはならずに済んだので、帰宅後エキパイは金属磨き(ピカール)で磨いて元のようになった。

気を取り直して斑尾山を登る。 ほとんどローギアしか使えない。 なんとか辿り着き合宿に合流。

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二晩仲間たちと飲んで騒いで、翌朝皆で飯山まで降りてきた。
この写真は飯山駅で「疾走するCB50」 当時は原付きはノーヘルでもOKだった。 腕の日焼けがいかに毎日バイクに乗っていたかをあらわしていますね。

ここで仲間と別れを告げ、また一人になって新潟の日本海を目指す。 新潟には父方の実家のお墓があり、ここに墓参りに来るのが目的だった。 新潟には幼少時代に来て以来だ。

cb50jx1-19780805niigatahakamairi.jpg

墓参りを済ませ、日本海沿いを北上、新発田、村上と進む。

CB50JX-1

夕方には秋田駅に到着。 今晩の宿はこの「秋田駅」だ。 
駅で野宿することを「ステーションホテルに泊まる」と言っていた。 今はどうなんだろう?

昭和時代の秋田駅.jpg

実はこのブログのタイトル「野宿で行く~」とあるが実は野宿した回数は多くない。 この秋田駅が初めての寝袋利用だ。

写真は翌朝の風景だがここに写っている、バイクのライダーも自転車の旅行者(輪行者)も写真にないがバックパッカー(カニ族って今言わないの?)
みんな一緒に駅で野宿した仲間です。

さらに北上を続け、男鹿半島から青森県へ。 いよいよ本州最北まで来た。 「50cc原付でも、山があろうがガンバれば日本中どこでも行ける!」は実感できた。 青森駅でも野宿。 野宿するのも慣れてきた。

昭和時代の青森駅.jpg

しかし秋田駅も青森駅も、さすがに30年前と今とではだいぶ変わったな。

青森駅で一緒になったライダーから「一緒に北海道を走らないか?」と誘われたがさすがにすこし疲れて風邪を引きそうな気配があったので
残念ながら辞退した。 この時、少し無理してでも北海道に渡っていれば。。。 そう思うとちょっぴり残念である。
あの時北海道に渡っていれば日本一周制覇が出来ていたはずだった。 その後、34年経って2012年になってようやくハーレーで奥さんとタンデムで初北海道ツーリングに行ったのはすでに書いたとおりです。

cb50jx1-tohoku01.jpg

青森から太平洋側に移動し、今度は南下しながら岩手から東京を目指す。

最終日は気仙沼から東京まで約500kmを一気に帰ってきた。 朝気仙沼のフェリーターミナルで野宿してバイクで出発したのが6時頃、それから食事の時だけ休憩して家に着いたのが夜の8時過ぎ、なんと14時間バイクに乗り一般道をひた走った。 おかげでお尻はあせもだらけ。 さすがにこれ以上のツーリングはキツイと思った。

でも今回のツーリングでまた一段とバイクが好きになった。
「自分がガンバって走った分だけ、行きたい所に行ける!」そんなバイクのツーリングは素敵だと思う。
今回のツーリングではバイクのパンクやエンジン不調等のトラブルもなくまた天候にも恵まれたため、初めてのツーリングだったからこその感想かもしれない。

このバイクは50ccの原付きということで非常に燃費のいいバイクで、リッター60km以上走った。 どんなに悪くても50km/lを下回る事は無かった。 燃料タンクは6.3リットルだったので満タンで300km以上走ることができた。 当時、ガソリンは70円台だったので満タンにしても500円でお釣りがくるほどだった。

CB50JX-1は約1年乗っていたが、翌年ホークCB250Tに乗り換えることになった。
でも私をバイクという新しい世界に連れて行ってくれたバイクだけに思い出深いものがある。 いまだに当時のパンフレットは大事にとってある。 この「東北一周」のツーリングの想い出とともに。


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プロフィール


プロフィール写真
メカ好きおじさん
・1978年に原付、中型二輪取得
・CB50で東北一周ソロで野宿旅
・250ccで四国・九州3週間5万円の野宿旅
・40都道府県制覇
・XL250オフ後、再度オンロードに戻る
・KAWASKI2ストを最後に一度バイクを降りる
・16年のブランク後リターン
・50歳で大型二輪免許取得
・ハーレーFLSTCに奥さんとタンデム中
・2012年から北海道タンデムツーリング7回


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