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2021年5月23日 日曜日

1970年代ツーリングの必需品2、コロナのタンクバッグ

前回紹介したUS ARMY の振分けサドルバッグと共に、当時ツーリングライダーの必需品だったのがタンクの上に乗せる「タンクバッグ」でした。
そしてそのほとんどがコロナ製のモノで、モスグリーンの帆布製のものと合皮の黒いモノがありました。

固定方法はタンクのベースとなるパッドを、タンクの下にゴムバンドを通して固定してそこにタンクバッグをバックルで留めるモノでした。
バイクから離れて歩き回る時はカンタンにタンクバッグを外せて肩から掛けるベルトもあったのですごく重宝していました。
タンク下を通すゴムバンド、当時はたしか古タイヤを切ったもののようでした。

運転中は目の前のタンクの上にバッグがあるので財布やカメラなどの貴重品もすぐに確認出来るし、なんと言ってもタンクバッグの上面は透明の大きなポケットになっていたのでここに地図帳をはさんでおけば走りながらでも地図が確認出来ました。
ナビなど無い時代にはこの地図と方位磁石だけが頼りでした。

私が東京から二週間掛けて東北地方を一周して来た時もコロナのタンクバッグを使っていました。
下の写真でわかりにくいですが、ヘッドライトケースの上にチョコンと乗っている白いボールのようなモノが自動車用のコンパスでした。

その後中型バイクと大きくなったのでタンクバッグも同じくコロナの黒の合皮製のモノに買い替えました。

下の写真は四国高知でたまたまフェリーが一緒になった三人で民宿の布団部屋で雑魚寝した翌朝に撮ったモノですが、1970年代に旅するライダーはみんなタンクバッグとリアキャリアの上の大きな荷物がお揃いでしたね。
(たまたま高知に渡った日が阿波おどりの祭りの日で、こんな時に飛び込みで泊まれる宿は無くて、地元タクシーの運転手さんが交渉してくれてなんとか民宿の布団部屋に素泊まり出来ました)

1980年に入りオフ車に乗ってからも荷物の多い泊まりツーリングではタンクバッグを使っていましたが、

オフロードだけを攻めに走る時はタンクではなくリアキャリアに乗せていました。

30年前にレーサーレプリカが流行っていた頃にはタンクバッグもコロナ以外からもいろいろ発売されていました。
固定方法も従来のようなゴムバンドではなく、マグネットでタンクに固定するのが主流になっていました。

今のハーレーに乗る前の一ヶ月だけ乗っていたドラスタですが、この時は昔買った同じタンクバッグを乗せていました。
ただタンクの上にスピードメーターのあるアメリカンタイプのバイクだとタンクバッグは不便でした。

そしてこのコロナ製のタンクに乗せるツーリングバッグですが、バイクブームの衰退と共に生産が終了してしまっていました。

ところがその後、有志の方々が集まってこのコロナ製と同様のタンクバッグの復刻をされて現在でも手に入れることが出来るようになっています。
素晴らしいことですね。


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40年前のツーリングの必需品だったUS・ARMYのサドルバッグ

今どきの長距離ツーリングではシートバッグやハードタイプのサドルバッグが主流となっていますね。
私のハーレーには最初から革製のサドルバッグが付いていました。

でも今から40年ほど前、1970年代のツーリングではハードタイプや革製ではないサドルバッグが多く使われていました。
素材は合皮や帆布製で、多くのバイクには「US ARMY」のマークの入ったバッグがタンデムシートに乗っていました。

振り分けバッグになっていて、タンデムシートの下にベルトで固定してシートの上に載せていました。
そしてこのサドルバッグは真ん中を持ち上げると取っ手が付いていてそのまま持ち歩くことも出来る便利モノでした。

私が東京から三週間の関西・四国・九州のツーリング行く時にもこの黒い合皮製の「US ARMYのサドルバッグを使っていました。
これだけ長期間に渡るツーリングでも、このサドルバッグとリアキャリアの上に載せたバッグと赤い寝袋だけで走りつづけることができました。

長崎を訪れた時にたまたま一緒になったライダーのGL400にも頒布製のサドルバッグが乗っていました。

何度も長距離ツーリングを繰り返していると、雨や盗難対策も考えるようになってサドルバッグからハードボックスタイプに交換していました。
鍵もかかり左右の収納力も大きくなり、さらにストップランプやウインカーなども装備されていました。

そしてこの写真でもかなり目立つもう一つのアイテムが「リアフェンダーに付けた泥除け」ですね。

今見ると恥ずかしいほど大きなものですが当時は雨の中のツーリングでリアタイヤが巻き上げたドロ汚れで荷物が汚れないようにするのと、当時としては「ファッション」「おしゃれ」のつもりだったんでしょうかね。

これも40年前の懐かしいツーリングバイクの思い出です。


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2020年3月18日 水曜日

ツーリング中に出逢った日本各地の人々

最近の私のツーリングはソロかタンデムがほとんどです。
以前は友人たちや職場の仲間、ハーレーのディーラーや免許を取った教習所のツーリングクラブのメンバーと走ることもありましたが、やは自由気ままに走ったり景色を眺めたり休憩したりしたいので大勢で行くことは減ってしまいました。

それでもツーリング先で初めての方に話しかけたりお声がけいただくことは楽しいですね。

ソロだとお声がけされることも多い一方、やはりタンデムで回っている時は相手の方も遠慮してか話しかけてくることは少ないですがそれでも北海道ツーリングでは思わぬ出会いもありました。

2016年の北海道タンデムツーリングで「道の駅風Wとままえ」で休憩して日帰り温泉に入り、周りを散策していた時に105周年記念カラーリングのハーレーの方からお声がけいただきました。
ずっと前に私が東京モーターサイクルショーで講演した時からブログやツイッターでやり取りしていた「モモちゃん」さんでした!
ツイッターで見て同じ時期に北海道に来ていることはわかっていましたがこんな場所でお会い出来るなんてうれしいかったですね。

「北のにしん屋さん」で昼食を取った時はツーリング中のライダーも大勢来ていました。
食事が終わって出発する準備をしていたら少し離れたところに停まっていたライダーの方がやってきて声を掛けてきました。
「メカ好きさんですよね!?」
ブログを見ていただいていてこっちの方に来られていると知って、載っていたハーレーを見てお声がけいただきました。
うれしくなって記念撮影させていただきました。

道道66号線でニセコパノラマラインに入る頃、雨がポツリポツリと来ていました。 さらに進むと雨が強くなってきましたので道端にバイクを停めてレインウェアを着込みました。
奥さんと二人レインウェアを着て出発準備をしている時に、反対車線に一台のジムニーが停まり運転されていた方が降りてきました。
そして私達の方に近づいてきて、「メカ好きおじさんですよね!? こっち方面に来ていると書いてあったのでもしかしてと思って声を掛けました。」
「探してきた訳ではなくて今日は自転車のレースがあるのでそれを見に来たんです!」
雨の中わざわざクルマから降りてきてお声がけいただけるなんてうれしいです。

ドーミーイン旭川で朝食を食べている時に近くの席に見覚えのある方を発見!
新潟のフェリー乗り場で「ブログ見てますよ」お声がけいただいたCB1100のライダーさんでした。
北海道を旅する方の周るルートや泊まる宿も似てくるんですね。
ホテル横に停めた私のバイクの横に停めてあったのがこのライダーさんでした。
お互い、安全運転で楽しみましょう!と挨拶してお別れです。

ここからは昔のツーリングでの「出会い」です。

41年前1979年の四国九州野宿旅の時です。
フェリーに乗って淡路島から生まれて初めての四国、徳島に到着しました。 徳島のフェリー港に着いたのは夕闇もすでに暗く暮れかかった時刻でした。

この時フェリーから降りたバイクは三台。 ホンダCB750KとSR400、そして私のホークです。
もう日も暮れて暗くなってきたので野宿する場所を探すのも大変そうでした。
それに一緒になった二人のライダー、名古屋のCB750Kさんと大阪のSR400さんと一緒にどこかに泊まろうという事になりました。
しかしちょうどその日は徳島県最大イベント「阿波踊り」の真っ最中の日、当然こんな日のこんな時間に空いている宿はなく、途方にくれるライダー三人。

「こんな時は地元のタクシーの運転手に聞くのが一番。 どこか空いている宿はないか、それに交渉までお願いするのがいいだろう」という事になって港に停まっていたタクシーにお願いします。 何軒か電話してくれるもほとんど全滅状態。

そんな中ようやく一軒だけ「部屋は空いてないけど困っているようだから布団部屋でよければ泊まらせてあげるよ」と言ってくれた民宿が見つかりました。
小躍りした私たちはタクシーの後にバイク三台繋がって隣の小松島港の民宿「みはらし」さんに泊まることが出来ました。

当然夕食など用意してもらえないので、ライダー三人でその辺の定食屋に繰り出し、はじめてあったばかりの人間ですが、そこは三人とも「バイクでの旅好き」という共通の話題で夜がふけるまで盛り上がっていました。
結局用意してくれていた布団部屋にもぐり込んだのもかなり夜が更けてからだったような記憶が、、、あまりありません(笑;
翌朝、それぞれ向かう方向がばらばらの三人、三台。
一緒に写真を撮ってお互いの安全を願いながら手を振って走り去っていきました。

当時のツーリングバイクには、今のようなハードのバニアケースを乗せている人はほとんどいなくてバッグに荷物を積んでいました。
そのかわりコロナのタンクバッグは定番でしたね。

長崎市内観光の途中からは、浜松からツーリングでGL400で来ていたシバタ君とずっと一緒に回りました。
一緒に回る人がいるのも楽しいし、ついつい写真が多くなってしまいました。
「長崎来たからには本場ちゃんぽんが食べたい」という彼のリクエストで、二人で長崎ちゃんぽんのお店に入りました。
この時の長崎ちゃんぽんが私の初ちゃんぽんであり、実はこの信州・関西・四国・九州ツーリングで唯一食べたご当地グルメだったのは、恥ずかしくてとてもブログには書けません。。。ははは
市内観光が一通りすんだところで彼に別れを告げ、佐世保を通って一気に福岡まで行きました。

鳥取砂丘でライダーブーツの中を砂まみれにして登って雄大な風景を堪能した後、日本海岸沿いに沿って走る事にしました。
その途中で出会った旅人、ヤマハGXクンです。

そして何度も登場した古い秋田駅の写真です。
秋田の駅で野宿した時に、駅に居たライダーやチャリダー、カニ族の人たちと駅チカの居酒屋でそれぞれの旅の自慢話で盛り上がりました。
「自分の足だけで日本各地を歩くのが一番思い出に残る」という大きなリュックを背負ったカニ族さんたち。
「いやいや自転車を畳んで電車で輪行も出来る自転車の方が行動範囲も広くていろんな場所に行ける」チャリダーさん。
「でもやっぱり風を感じて日本中に行けるバイクが最高!」と私達。。。
手段はともかく「野宿しながら日本各地を自分の目で見て感動する」という思いは同じという結論に。
この写真はその翌朝、出発前のものです。

出会いではないですが、バイクで日本各地を回っている時には地方にいる友人知人宅に立ち寄ることも多かったですね。
地元近くに着いてから電話をしてこれから行ってもいいですか?と聞くとみなさんびっくりされました。 「こんなとこまで一人でバイクで来たの?」
今と違ってナビやスマホなど無い時代、住所と全国地図だけを頼りにお宅訪問です。
これは大阪の親戚を訪ねた時です。

ほかにも旅人たちではない「出会い」もたくさんありました。

九州鹿児島を走っている時、台風にあいました。
さすが雨の中、屋根があるところでも湿っぽいのは嫌なので野宿をあきらめ、ユースホステルに泊まることにします。 電話ボックスにあった電話帳で探して今晩泊まれるか確認したところOKとの返事をいただきほっと一安心。
今のようにスマホがあればもっと簡単に検索して予約確認出来たでしょうね。
当時はライハ、ライダーハウスなんてものはなかったので安く泊まろうとすると民宿かYHを探すしかなかったと思います。
実は、この時がYH、ユースホステルも初めての経験でした。
システムとしては会員だけが泊まれるYHと会員でなくても泊まれるYHがあるというのはバイク雑誌に載っていたツーリングレポートで読んで何となく知っていました。
桜島ユースホステルは会員でなくてもOKのところだったのが幸いでした。。
YHは基本的には毛布だけは持参が原則ですが、当然野宿の私は持っていませんので、そんな人は有料で毛布を借りて泊まりました。
遅く入ったので夕食は無理でしたので、外に出て教えてもらったお店まで行って簡単な食事を取ることができました。
YHは基本的に複数人での相部屋、原則男女別で今はわかりませんが当時はYHによっては夫婦でも男女別の部屋になったそうです。
夜はミーティングがあって自己紹介、でもどんな事をしたかほとんど覚えていません。
その後はパンク修理と凄い雨で疲れていたので早めに休んでしまいました。

これも何度かこのブログに登場した九州の折口駅
この日の夜、寝袋を広げて休む準備をしているとこの無人駅に地元のおじさんが近づいてきた。
「ココで寝泊まりされては困る!」とかなにか注意されるのかと身構えていると、むっつりした顔で「どこから来た?何してる?」と聞いてきました。
そう言われても最初に思った事は、「よかった!この人は言葉が通じる!」(鹿児島で地元のおまわりさんに声をかけられた時は方言が聞き取れませんでした)
「東京からバイクで来て野宿の旅をしています。 今晩はこの駅で泊まらせてもらうつもりです」と言うと、
「それならウチに来い。寝るとこも食事もある」と言ってくれました。
ちょっとびっくり、でも凄くありがたい申し出でしたが、当時の私はまだ他人の家にズカズカ上がりこんで泊めてもらうほどの度胸はなかったのでお礼を言って辞退してしまいました。
おじさんはしきりにすすめてくれましたが、しまいに「まあ気が向いたらおいで」と言って帰って行かれました。
今だったらホイホイ喜んでズカズカ上がり込んで食事に甘えてしまい、いっぱいお話したかったですね。
そうできなかったこれもこの旅の残念な思い出です。
でもやはり旅をしていると人様の親切がホントに実感出来てうれしいですね!


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2020年3月13日 金曜日

ツーリング中にパンク三回

と言っても40年以上昔のことです。

バイクに乗り始めて2年め、前の年に東北一周したのでこの年は東京から西、中部・近畿・四国・九州・中国地方を回ってきました。
もちろん今回もテント無しで寝袋だけキャリアに載せての野宿のソロツーリングです。
この乗っていたバイクはホンダのHAWKです。

東京から一旦長野を周り、友人たちの合宿に参加した後、別れて京都、神戸と回りました。
フェリーで四国に入りさらに九州に渡って宮崎市を出てしばらく走っているとハンドルがブレてきて振動が大きくなりました。
すぐに路肩にバイクを止めてバイクを点検すると後輪がパンクしていました。

ガソリンスタンドのあるところまで騙し騙し走ってなんとかたどり着いて、お願いして隅の方の場所を借りて後輪を外してみました。
実はそれまでパンク修理はした事がなかったのですが、雑誌などでやり方について一通り頭にいれてありました。
メインスタンドを立てて、後輪を固定しているボルトを緩めてチェーンを外し、重たいタイヤを降ろして床に置いてタイヤレバー3本を差し込み、ビートをリムから落としてチューブを取り出しました。

タイヤレバーや携帯用の空気入れはツーリングの時に持ってきていました。
中のチューブの口金のところに大きな亀裂がありましたので、持っているパンク修理キットだけでは修理は不可能なようでした。

ツーリングに出てから12日目、1979年の8月15日ちょうどお盆の日でした。

スタンドの人に相談してみましたが、当然バイク用のしかもサイズがホーク用の物などあるわけがありません。
近くにバイク用品店などもないし運の悪い事に今日は8月15日、お盆でお店はほとんどやっていません。
途方にくれていると見かねたスタンドのおじさんがわざわざ軽トラに乗せてくれて街中まで走ってくれました。
何軒か休みの店ばかりであったが、ようやく一軒だけ街の自転車屋さんのようなところで求めるサイズのチューブが見つかりました。
予備の分も含めて前輪・後輪用のチューブを購入する事が出来たのは非常にラッキーでした。

スタンドのおじさんも自分の事のように喜んでくれました。
お礼を言って車のガソリン代を出そうとすると頑なに固辞され、「困っている時はおたがいさまだから」と言って笑っているだけでした。
やっぱり旅の途中で出会った人達はいい人が多いと感じた場面でした。

スタンドに戻って自分でチューブ交換をして再び走り出す事ができました。

これが最初のパンクでしたが、再度パンクしてしまいましたが二回目の修理はチューブにパッチを当てるだけで修理完了です。

そしてツーリング18日目8月21日、九州から本州に戻り日本海側を走って舞鶴を過ぎたあたりで、今回3回目のパンク。

まあ慣れたもんだが、作業する場所を探してダマシダマシバイクを走らせました。
ガソリンスタンドを見つけ、「店舗の片隅でパンク修理をさせて欲しいのでバイクを停めさせて欲しい」と申し出たが、答えは「だめだ!」 「修理は自分でやるから場所だけ貸して欲しい」とお願いしてもダメと剣もほろろ。
これ以上頼んでも仕方ないし、お願いしているのはこちらなので別のバイクを停められそうな空き地を探してパンク修理を行いました。

今の時の3週間のツーリング中、パンクは前輪1回後輪2回の計3回経験しました。
チューブ入りタイヤのパンク修理は、チューブレスより手間がかかります。
当時はまだバイクのホイールといえばスポークホイールが中心で、ホンダはコムスターホイールという鉄板をプレスしたものをワイヤーの代わりに使っていたものです。
バイクの国産市販車で初めてキャストホイールを採用したのは、1978年6月にヤマハが発売した原付き、RD50SPが最初だったと思います。
キャストホイールならチューブレスに出来て修理も自動車と同じゴムキャップに接着剤を塗って押し込むだけで出来ます。
まあそれでもタイヤに大きな亀裂が入ったら、タイヤごと交換するかチューブを入れる必要がありますね。
でも今はあまりバイクでのパンクは聞かないようです。
昔は未舗装路が多くて尖った砂利があったり、道路に釘やネジなどが落ちていてそれが刺さる事がたまにありました。

タイヤ交換はタイヤレバーでタイヤからチューブを引き出して穴のあいた場所を見つけてパッチをあてて修理し、再度チューブをタイヤに組込みビートを入れ指定圧まで携帯しているハンドポンプで空気を入れる、文字にするとこれだけ(結構長いかな)だが、実際の作業は30分以上かかるし、力もいります。
まして前輪はメインスタンドを立てた上に前輪を浮かせるために後輪に重しを乗せ、タイヤを外す必要があるので余計に手間が掛かります。。

それでも国産中量バイクだから出来るのであって、今乗っているハーレーでは絶対無理!
そのためにハーレーの純正タイヤは、多少空気が抜けても少しは走れるようにタイヤのサイドがかなり固く出来ているそうです。


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2020年3月7日 土曜日

ソロツーリング時の野宿キャンプで怖かったコト

近年はソロキャンプが人気でドラマやアニメ、テレビでもよく見られますね。
特にひと気の少ない冬の間のキャンプを好むキャンパーも多いようです。
さらには女子キャンパーも増加しているとか。

オジサンとしてはそんな状況で一人でキャンプをして危ない目に合わないかなとちょっぴり心配になります。

私が40年以上昔の学生時代に、ソロでバイクに乗って青森から鹿児島まで日本中を回っていた時は、テントを使わずに寝袋を使って野宿をしていました。
寝ていた場所は、駅だと青森駅や秋田駅、京都駅などといった大きな駅から地方路線の無人駅など。


 ↑ これは秋田駅で寝た時の翌朝で、前の晩は写っているライダーやチャリダー、カニ族の方と飲んでました。


 ↑ こちらは鹿児島県の無人駅で寝た時です。

他にも神社やお寺、公園(広島の平和記念公園も寝たなあ)や街道添いの無人のコインスナックなどいろいろでした。

当時、そんな場所で野宿していると多少は怖い目にあった事もあります。

大きな駅で寝ていた時は夜中に鉄道公安官の方から質問を受けた事は何度もありました。 ターミナル駅で寝ていた時(「ステーションホテル泊」笑い)は、出勤ラッシュが始まる前、4時前には洗顔を済ませて出発しました。

無人駅で寝ていた時は、夜中に視線を感じて寝ているベンチで目が覚めたら野良犬がこちらをのぞき込んでいたとか。 まあ地方の無人駅だと地元の方が夕食に誘ってくださった事もありますけど。

街道添いのコインスナックだと、夜中に暴走族の集団がやってきて起こされた事もあります。

最初に書いたようなキャンプ場で寝る場合なら、こんな事はないでしょうけどそれでもイロイロ気になりますね。

私も結婚してからは一人でバイクでの野宿旅をする事はなくなって、30数年前に流行ったオートキャンプにハマりましたね。

最初に友人家族と黄色いワーゲンビートルでキャンプに行った時はまだテントを持っていなくて、友人のご主人と二人でランクルの車内で寝ました。

その後アウトドア用に初代パジェロに乗ってからは少しずつキャンプ道具を集めて楽しんでいました。

最終的には大きなロッジ型テントにコールマンで一式揃えていました。

現在はハーレーでタンデムツーリングに出る時は泊りがけでもキャンプではなくホテルに泊まってばかりです。
でも夢としては、一度は北海道を1週間とか期限を決めずに昔のように自由気ままに好きな日数だけキャンプしながら回ってみるのも楽しそうですね。 まあ体力的に耐えられるかどうか心配ですけどね。


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2019年8月19日 月曜日

今日はバイクの日、私のバイクの思い出の写真

8月19日は「バイクの日」、各地でバイクにちなんだイベントも開かれたようですね。
以前、私も秋葉原とかで行われたイベントに行った事もありましたが、最近はずっと仕事でどこにも行っていません。

このブログのタイトルも「バイクと趣味に生きる」とあるように、私の人生の様々なシーンでバイクと大きく関わっています。

私がバイクに乗り始めたのは20歳の時、今から41年前の1978年でした。
当時、自転車を買おうかと思ったのですがふと、「エンジン付きの方が楽に走れるな」という安易な考え方で原付き免許を取得してバイクに乗り始めました。
最初のバイクはお店から乗って帰ってくる自信がなくて自宅まで運んでもらいしばらくは自宅の周囲をぐるぐる回っていました。 なにせ原付きの暗記本だけで免許を取ったので実技の経験が全くなかったからです。

それでも4月に乗り始めてから4ヶ月後に、東京の自宅から長野、新潟、秋田、青森と周り、野宿しながら2周間で東北一周してきました。

秋田の駅で野宿した時に、駅に居たライダーやチャリダー、カニ族の人たちと駅チカの酒場で盛り上がったのはいい思い出です。

50ccの原付きでも東京から青森まで走る事が出来ました。
この時、同じく駅に居たライダーに「一緒に北海道を回らないか?」と誘われたのを、風邪気味なのを理由に断ってしまったのは、41年経った今でも残念で仕方ありません。

原付きに乗り始めた翌年には中型免許を取得してバイクを乗り換えました。
今度は3週間掛けて東京から関西、四国、九州と野宿の旅を決行しました。
この写真はフェリーで初めて四国に渡った時のもの。
この頃はライダースジャケットではなく、腕まくりしたGジャンに首には赤いバンダナ、今見ると恥ずかしいファッションですね。

さすがに中型バイクなら鹿児島までも乗っていて楽々でした。

長崎の街を一緒に走ったライダーとの一期一会。

最後にはこのバイクもサドルバッグを付けてツーリング仕様になりました。

バイクのスピードに慣れたら次はコントロールする楽しさを知りたくてオフロード車に乗り換え。

雪が降ればわざわざ新雪を求めて山道に向かいました。

その後社会人になって少しバイクから離れていましたがやはり乗りたくなり再びホークの世界に逆戻り。

仕事仲間とのツーリングの機会も増えました。

冬の時期の服装はWBの革ジャン。 アメ横でお気に入り買った一着です。

その後時代の波に乗ってレーサーレプリカへ。 人とは違うバイクということで「男カワサキのKR250」
真っ赤なつなぎの後は、

革のレーシングスーツで走ってました。

そしてまたしばらくのブランクの後、それまで乗っていなかったバイクのジャンルとしてアメリカンタイプという事で選んだ新車のドラスタ250を1
ヶ月で今のハーレー・ダビッドソンに乗り換えてしまいました。
この時私は51歳、このハーレーは初めて行ったショップでひと目ボレしてその日の内に契約。 さらにこの時点で大型バイクの免許をもっていなくてそれから免許を取得しました。

このハーレーになってからはホントによく奥さんとタンデムで走っています。
そしてとうとう念願の北海道ツーリングも2012年に達成することが出来ました。

毎年、「バイクの日」が来るたびにこうして今まで乗ってきたバイクと旅の思い出に浸っています。
これからもまだ乗り続けていきたいですね。


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2019年4月22日 月曜日

二輪車通行止めになった奥多摩周遊道路の思い出

数日前から奥多摩周遊道路が二輪車のみ通行止めになったようです。
以前からバイクの事故が多発していたのと速度オーバーで危険だと判断されたようです。

「奥多摩周遊道路」は、東京都の西多摩郡奥多摩町川野から檜原村数馬に抜ける道路です。 1973年4月に開通し1990年3月までは「奥多摩有料道路」でした。
今から41年前の1978年にバイク(原付)に乗り始めた私も、ここに毎週のように走りに行っていました。 当時東京都内に住むライダーの多くは週末にここに来ていたものでした。

今もそうですがこの頃はまだ開通して数年なので自動車で観光に来る方も大勢いました。
下の写真は、1978年当時の川野側から来て最初の大きな駐車場の「月夜見第一駐車場」を上から見た所です。 奥多摩の山々や小河内ダムを一望に見渡せ、またコーナーを曲がってくるバイクも良く見える場所でした。 左の方には売店も見えます。

バイクも中型や小型のライダーが多かったですが、中には大型のバイク、それでも当時はナナハンが最大排気量でしたが、ここに走りに来ていました。 でもそれほどの速度では走っていなくて車線はみだしとか無理な追い越しはあまり見かけませんでした。 当時は「ヒザ擦り」で走るなんてなかったですね。

最初に「昔は有料道路だった」と書きましたが、その証が料金所です。 その変遷の写真を並べてみます。
まずは川野側の料金所です。
最初は1978年当時のもの。 しっかり「奥多摩有料道路」と書かれています。 当時原付の通行料金はたしか70円だったと思います。

その後、料金所のブースはそのまま残り「奥多摩周遊道路」となっていました。

そして2014年に撮った写真には、料金所のブースもすっかり姿を消していました。

反対側の数馬側の料金所の写真です。
1978年の写真がこちら。

これは2011年のものです。

同じ数馬の料金所を、川野側から降りてきた時の様子です。

こちらも2014年にはすっかりブースが無くなっていました。

ところで下の写真の鉄塔とケーブルはなんだかご存知でしょうか。

これは、1962年から1966年までのわずかな間だけ運行されていた、奥多摩湖を上を横断する観光用の「奥多摩湖ロープウェイ」用のものなのです。
その駅が川野側料金所の近くにあった「三頭山口駅」です。
駅舎とロープウェイの跡は廃墟となってマニアの間では有名な場所です。

1978年に原付、CB50JX-1で奥多摩周遊道路を走っていた私ですが、翌年には中型免許を取得してホークで出かけるようになりました。
最初の頃のノーマル状態がこれで、

その後、四国・九州ツーリングに向けてロング旅用にカスタムしたのがこちらです。

でも昔と違って、バイクがかなりの速度で走っているので後ろから来るのがミラーに写るとウインカーを出して先に行ってもらっていました。
私はどちらかというと景色を楽しみながらのんびり走っているのが好きでした。

奥さんに作ってもらったおにぎりなんかを食べてましたね。

冬の路肩に雪が残っている時もハーレーで走りに行くのってどうなんでしょうね。

ここのゆるやかなコーナーを走るのが一番好きでした。

都民の森の駐車場には、アニメ「ばくおん」の看板も設置されていましたが、今回とうとう二輪通行止めになってしまいました。

最近は怖くて周遊道路を走ることはめっきり減って、奥多摩から丹波山、柳沢峠を抜け甲府に出る通過点になりました。

それでもこの周遊道路、いえ私にとってはいまだに「奥多摩有料道路」はバイクに乗り始めた頃に練習に行った道でしたが、走れなくなると寂しい思いでいっぱいです。


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2015年10月17日 土曜日

いろいろあった1970年代の九州ツーリング

前回、1979年に東京から三週間野宿ツーリングの四国編を掲載したところ、思った以上にブログでもツイッターでも多くの方に読んでいただき好評だったようです。

これに気を良くして(調子に乗って)、じゃあついでに「九州編」も書いちゃおうという事になりました。

 

前回、四国の八幡浜からフェリーに乗って九州の臼杵に渡ったところで最後となっていました。

さらっと書いていましたが実はかなり大変なことになっていました。

この日、かなり風が強く海には高い波が立っていました。

昨日野宿した宇和島の神社を日が昇ってまもなく出発して、i時間ほどで八幡浜に着きました。

走っていてちょっと横風に揺すぶられるかなとは思いましたが、そこまでひどいとは思っていませんでした。

着いてすぐのフェリーに乗ったのですが、これがまあ揺れること揺れること。

デッキに出て外を眺めていたのですが、手すりにつかまっていないと立っていられないほどでした。

乗っていたのは2時間ちょっとでしたが感覚的にはもっと長かったような気がします。

私は子供の頃から遠足で乗るバスでも気分が悪くなることがたまにあったのですが、なぜか大人になってからは乗ったバスだけでなく船で酔った事は一度もありません。

バイクに乗り始めてコーナリングで傾いている事を体が覚えたので、三半規管が少しは鍛えられたのでしょうか。

 

九州、大分県の臼杵港に着いた頃には風もだいぶおさまって普通にフェリーから降りてきたのですが、その時聞いた話では波が高くて危険なのでこの後の便から欠航することに決まったということです。

うーん、よく無事に来られたものですね。


 

 

さて東京を出てから、これもまた生まれて初めての九州にやってきました。

といってもどこを走るかは全く決めていません。

とりあえず九州一周、それも出来れば海岸線に近いところを走ることにしました。

持ってきたのは日本全国地図一冊だけでガイドブックもありません。

地図に表記されている「おすすめの観光地」というところと何となく昔から知っている九周の有名な地名のところだけ辿っていこうという、とってもアバウトな旅です。

ちなみに四国編でもそうでしたが、私の昔のツーリングではご当地ならではの「グルメ」「郷土料理」はほとんど出てきません。

食べ物にはこだわりがなかったので、普通の定食屋さんやドライブインなどを利用していました。

今ならもうちょっとその土地ならではの料理をスマホで調べて食べていますが、当時はなんともったいないことをしたものです。

 

フェリーから降りた臼杵の町は曇ってこそいても雨は降っていませんでした。

しかし海岸線に沿って南下していくうちに天気は悪化してきました。

この日の宿は宮崎市の手前まで来た時に見かけた国道沿いのコインスナックでした。

私の寝袋一丁だけの野宿ソロ旅では、この24時間営業のコインスナックもよくお世話になりました。

 (この日の走行:302.8km)

 

翌日は8月15日、終戦記念日でした。

天気は朝から雨、宮崎市内を走っている時はこんな雨の中を走りました。


 

宮崎といえば当時は「新婚旅行の行き先」「野球のキャンプ地」くらいの知識しかありませんでした。

地図を見ると「平和台公園」というのがあります。

終戦記念日に行く行き先としてはいいだろうと思いそこに向かいました。


 

この時は雨もあがり、傘を持たずに見て回る事が出来ました。

公園内にははにわもありました。


 

公園を出て、バイクに跨り走り始めて宮崎市を出てしばらくするとどうもバイクの挙動がおかしいようです。

すぐに路肩に止めてチェックすると後輪がパンクしていました。

今回の旅行の前、大きなエンジントラブルは無理だとしても軽微な故障、トラブルは自分で何とか人里まで自走出来るくらいには応急処置が出来るようになっていた方がいいだろうと、それなりに準備をしていました。

パンクした場合の修理方法も一応調べておきましたがまだ実際には作業はやったことがありませんでした。

路肩ではパンク修理もやりにくいし危険なので、なんとかガソリンスタンドのあるところまで騙し騙し走ってやっとの思いでたどり着きました。

スタンドのおじさんに断って隅の方の場所を借りてメインスタンドを立て、持ってきた工具を使って後輪を外してみると、なんと中のチューブの口金のところに大きな亀裂があるではないですか。

この時、タイヤを脱着する工具とパンク修理のためのパッチセットは持ってきていましたが、スペアタイヤを用意するまでは気が回っていませんでした。

持っているパンク修理キットだけでは修理は不可能で、どうしても新しいタイヤ用のチューブが必要です。

今のバイクはチューブレスのタイヤのものが主流で、パンクしてもクルマと同じようにゴム栓をねじ込めば修理完了ですが、昔のバイクや今でもスポークホイールの私のハーレー、ヘリテイジのようなバイクは、タイヤをハズしてリムから落とし、チューブを引き出して修理する必要があります。

スタンドの人に相談してみますが、当然然バイク用のしかもサイズが乗ってきたホークに合う物などあるわけがありません。

近くにバイク用品店などもないし、さらに運の悪い事に今日はさっきも書いたように8月15日のお盆です。

お店があったとしてもほとんどやっていない状況です。

途方にくれていると見かねたスタンドのおじさんがわざわざ軽トラに乗せてくれて街中を走ってくれました。

何軒か休みの店ばかりであったが、ようやく一軒だけ街の自転車屋さんのようなところで欲しかったサイズのチューブが見つかり踊り出さんばかりに喜びました。

このお店で予備の分も含めて前輪、後輪用のチューブを購入する事ができました。

スタンドのおじさんも一緒に喜んでくれました。

お礼を言って車のガソリン代を出そうとすると頑なに固辞され「困っている時はおたがいさまだから」と言ってただ笑ってわらっているだけでした。

やっぱり旅の途中で出会った人達はいい人が多いと感じた時でした。

おじさんのスタンドに戻って自分でチューブ交換をして無事、バイクは走れるようになりました。

何度も何度もおじさんやお店の方にお礼を言って大きく手を振りながらスタンドを出発しました。

 

パンクの直ったバイクでえびの高原から霧島へ向かいます。

鹿児島ではこの場所くらいは私でも観光地として知っています。


 

九州鹿児島と言えばなんと言っても桜島でしょう。

霧島市街から見た桜島は雨で霞んでいます。


 

道ばたに停まってバイクにまたがったままカメラを向け写真を撮っています。

わざとバックミラーに自分が写り込むような角度を選んでいますね。

オレンジのウェアは今の「レインウェア」というより「ラーメン合羽」と言った方が似合っています。

今の人はこの言葉は知らないかもしれませんね。

ラーメン屋さんの出前のスーパーカブの人が、目立つように上下オレンジ色の合羽を着ていたのでそう呼ばれていました。

私の被っているヘルメットは今と同じようにジェットヘルです。

あの事は写真にあるように、白い小さなヒサシを付けているのが普通で、またジェットヘルにはシールドがあまり付いていなくてそのかわりにゴーグルをするのが当たり前でした。

また、当時はまだタバコを吸っていたので指に挟みながらシャッター押してますね。

この一枚の写真だけでも、当時のライダーのいろんな様子が懐かしく思い返されます。

 

どうせなら桜島へ行こうと思い、鹿児島湾を回って行くのですが雨は強くなる一方で道路は川のように水があふれてきています。

 ※ 参考までに気象庁のサイトでは、過去の日本各地の気象状況を検索して調べる事ができます。

   1979年8月15日の鹿児島の状況です。

   やはり大雨になっていましたね。


 

 

さすがにこの雨の中、屋根があるところでも湿っぽいのは嫌なので野宿をあきらめ、ユースホステルに泊まることにします。

電話ボックスにあった電話帳で探して今晩泊まれるか確認したところOKとの返事をいただきほっと一安心。

今のようにスマホがあればもっと簡単に検索して予約確認出来たでしょうね。

当時はライハ、ライダーハウスなんてものはなかったので安く泊まろうとすると民宿かYHを探すしかなかったと思います。

実は、この時がYH、ユースホステルも初めての経験でした。

システムとしては会員だけが泊まれるYHと会員でなくても泊まれるYHがあるというのはバイク雑誌に載っていたツーリングレポートで読んで何となく知っていました。

ここ、桜島ユースホステルは会員でなくてもOKのところだったのが幸いでした。。

YHは基本的には毛布だけは持参が原則ですが、当然野宿の私は持っていませんので、そんな人は有料で毛布を借りて泊まりました。

遅く入ったので夕食は無理でしたので、外に出て教えてもらったお店まで行って簡単な食事を取ることができました。

YHは基本的に複数人での相部屋、原則男女別で今はわかりませんが当時はYHによっては夫婦でも男女別の部屋になったそうです。

夜はミーティングがあって自己紹介、でもどんな事をしたかほとんど覚えていません。

その後はパンク修理と凄い雨で疲れていたので早めに休んでしまいました。

  (この日の走行:182.5km)

 

翌朝、起きてみると昨日の荒れた天候がウソのような快晴。

やっと泊まった桜島YHの写真を撮ることが出来ました。


 

 ※ これも参考までに今見られるこのYHのサイトに掲載されている写真ですが、当時と同じものです。

   こうして今の様子を知る事が出来るのもネット検索のおかげですね。


 

 

桜島から見た鹿児島の町です。


 

昨日はよく見えませんでしたが、これが白煙を上げる桜島南岳です。


 

今日の最初の目的地は、九州最南端の佐多岬です。

ライダーはとかく「先っぽの岬」を目指すのが好きな人種ですね。

鹿児島湾沿いの海岸線をひたすら南下するしていきます。

すると突然後ろからパトカーがやってくるではないですか。

別に制限速度をオーバーしている訳ではないですが、路肩によって止まっていると警察官の方が二人やってきて、私のバイクのナンバーを見てから声をかけてきました。

当時の私は東京都内23区内に住んでいましたが、バイクのナンバープレートは「練馬」でした。

東京でも「品川」ナンバーなら地方でも知れていたかもしれませんが、「練馬」は少し認知度が低かったのでしょうか。

「君は○△×■▽★◎?」

すみません!

言葉が通じません!

困った顔をしていると何度か声を掛けられたのですが、やはり「×■▽★△×■」

警察官の方もあきらめたような顔をして、それでもなんとか聞き取れたのが「気をつけて◎★□」でした。

正直、前の年に行った東北、青森でも言葉の壁はありましたがココよりはまだわかりました。

でも鹿児島の最南端では無理だった!

今ならスマホの多言語翻訳ソフトで、、、って鹿児島弁用もあるのかな?

手を振る警察官に見送られて佐多岬へ急ぎます(もちろん制限速度内で)

そして佐多岬、九州最南端を制覇したぞ!(沖縄はのぞく)


 


 


 

九州最南端制覇に満足した後は、鹿児島湾をショートカットするように指宿までフェリーに乗ってしまいます。

さすがに鹿児島湾をグルッと回っていては効率が悪いですね。

フェリーの上から見た桜島です。


 

指宿からは北上していきますが、途中立ち寄ったのが鹿児島市の「西鹿児島駅」。


 

ここがその後に九州新幹線の終着駅、「鹿児島中央駅」になるなんて、当時は思いも寄りませんでした。

 ※ 下の写真は今年の5月に鹿児島に出張で行った際に、昔の写真をタブレットで映しながら今の駅と比べてみたものです。

鹿児島本線に沿って北上し、西鹿児島駅あたりから今夜の野宿する場所を探していきます。

「折口」という無人駅を見つけ、ここで寝ることにしました。

無人駅の場合、待合室のベンチに寝袋を敷いて寝るのですが、そのすぐそばまでバイクを持ってきておけるので割と安心していられます。

もちろん始発電車が来る前に起きて出発して迷惑を掛けないようにしています。

下の写真は翌朝の様子です。


 

 ※ ここの駅も最近ネットで見つけた写真を貼ってきます。ずいぶんと変わったようですね。

ところでこの日の夜、寝袋を広げて休む準備をしているとこの折口の無人駅に地元のおじさんが近づいてきた。

「ココで寝泊まりされては困る!」とかなにか注意されるのかと身構えていると、むっつりした顔で「どこから来た?何してる?」と聞いてくました。

そう言われても最初に思った事は、「よかった!この人は言葉が通じる!」

「東京からバイクで来て野宿の旅をしています。 今晩はこの駅で泊まらせてもらうつもりです」と言うと、

「それならウチに来い。寝るとこも食事もある」と言ってくれました。

ちょっとびっくり、でも凄くありがたい申し出でしたが、当時の私はまだ他人の家にズカズカ上がりこんで泊めてもらうほどの度胸はなかったのでお礼を言って辞退してしまいました。

おじさんはしきりにすすめてくれましたが、しまいに「まあ気が向いたらおいで」と言って帰って行かれました。

今だったらホイホイ喜んでズカズカ上がり込んで食事に甘えてしまい、いっぱいお話したかったですね。

そうできなかったこれもこの旅の残念な思い出です。

でもやはり旅をしていると人様の親切がホントに実感出来てうれしいですね!

  (この日の走行:319.4km)

 

翌日はほぼ移動日でした。

折口から出水郡を通り、蔵之元から牛深へのフェリーに乗りました。

一度フェリーに乗ってから必要もないのにフェリーに乗りたがっているようです。

なんかフェリーづいていますね。

ここから天草五橋へ向かいました。

小さな島が点在している中を橋が通っていのが珍しかったです。


 

その後は有明から熊本さらには玉名と回りました。

夕方、日が傾きはじめて薄暗くなる前に、今晩の宿のメドをつけておこないとっても心細いのが野宿旅です。

これは佐賀の南のところで少し暗くなり始めています。


 

この上下の写真で、キャリアに積んだ荷物をモスグリーンのカバーで覆っているのに気づきましたか。

実はコレ、バイクのオディーカバーなんです。

着替えの入ったバッグや寝袋が雨に濡れないように、厚手の防水にナッテイルボディカバーでくるんでいるんです。

そしてもう一つ、このボディカバーの使い道があります。

公園や神社など、屋外の屋根のないところで野宿するとき、テントは持っていかなかったのですがこのボディカバーとひもで、バイクや木立にタープのようにしてその下で寝ていました。


 

結局この日は有明湾をほぼ一周して、長崎本線の備前飯田駅に泊まることになりました。

 

ここでちょっと、昔の記事にも書いた私の野宿のスタイルを転記して紹介します。

私がバイクで野宿する場所は、

 ・無人駅
 ・大きな駅のロータリー
 ・街道沿いの24時間やっている無料のコインスナックのベンチ
 ・公園や工場の入り口
 ・神社やお寺の境内

などが多かったです。

野宿していて困るのは「人」と「動物」。

「人」は、例えば大きな駅では駅員や守衛さんから注意される事もあるし、街道沿いのコインスナックでは夜中に暴走族が溜まりにくる事もあります。

まあ暴走族も同じライダー。「どこから来たんや!」「東京だ!」という会話で結構話がはずんでしまう事も結構あって缶コーヒーをごちそうになった事もあります。

無人駅に泊っていると先ほどのように地元のおじさんが「うちに泊っていけや!」なんて言ってくださる事もある。

夜中に寝ていてなんとなく人の気配で目を覚ますと浮浪者がこっちをのぞき込んでいた時はかなりびびった。

 

「動物」で困るのが野良犬です。

特に雨の日に屋根付きのところで野宿していると犬が一緒に雨宿りにやってくる。

そして夏のツーリングでやっかいなのが「蚊」。

携帯用の蚊取り線香を使っていたが、風下で寝ていると喉が痛いし風上だと効かない。

虫刺されのムヒはすぐになくなってしまう。

当時は液体のものはなくチューブ入りの軟膏でした。

 

野宿する話に戻ると、

夕方4時頃からそろそろその日の宿にふさわしい場所を物色し、適当な場所があればそのままその日の走行は終了となる。

一旦ここ、と決めた後でもやはり不都合があって場所を変えることもある。

日が暮れて暗くなっても泊る場所が決まらないと不安になる。

それが「私流、バイクでの野宿旅」スタイルでした。

 

  (この日の走行:328.7km)

 

東京を出発してからツーリング、15日目 1979年8月18日(土)。

この日が九州を回る一応最終日です。

今日は諫早市を通過し、最大の観光地、長崎へ向かいます。

鹿児島での大雨以来、合羽の出番もなく快調に走れるのがなによりうれしいです。

長崎では少しだけ一般的な観光地を回ることにしました。

オランダ坂、


 

グラバー園、


 


 

写っている私のポーズがみんな同じだぁ!というツッコミは置いておいて。。

写真に写っている観光客の女性の方も、時代を感じさせるファッションですね。


 


 

十六番館、


 

そしてめがね橋。

この写真は1982年(昭和57年)の長崎大水害で壊れる前のもの。


 

長崎市内観光の途中からは、浜松からツーリングでGL400で来ていたシバタ君とずっと一緒に回りました。

それでポーズを取った写真が多かった訳です。

これは平和記念公園。


 

一緒に回る人がいるのも楽しいし、ついつい写真が多くなってしまいました。

「長崎来たからには本場ちゃんぽんが食べたい」という彼のリクエストで、二人で長崎ちゃんぽんのお店に入りました。

この時の長崎ちゃんぽんが私の初ちゃんぽんであり、実はこの信州・関西・四国・九州ツーリングで唯一食べたご当地グルメだったのは、恥ずかしくてとてもブログには書けません。。。ははは

市内観光が一通りすんだところで彼に別れを告げ、佐世保を通って一気に福岡まで行きました。


 

途中、絵はがきを出すために立ち寄った茂木の郵便局。


 

虹の松原も観光地ということ走り抜けてきました。


 

今日寝る場所は、ホンダSF工場(HISCO新宮)前のコンクリートの上でした。

ホンダのバイクに乗っているから、ちょっと軒先をお借りしてしまいました。

  (この日の走行:310.2km)

 

九州に入って6日目。

関門トンネルを通って本州に戻る日が来ました。

なんとなく九州を去ると、この旅も後半になってきたという感じがしてきます。

いよいよ今日で九州ともお別れ、これから本州に戻って東京を目指す。

そういえばもう曜日の感覚はまったくなくなっています。

下の写真、変でしょう!

実は昨日の晩泊まったホンダSFと関門トンネルの入口が多重露光してしまったのです。

当時の銀塩フィルムでは、最後のところでたまにこうなる事がありましたよね。

失敗写真ですがこれしか記録がないのであえて載せさせてもらいます。


 

北九州の関門トンネルを通ると、海底トンネルなので昔から冗談でよく言われるように(ホントに昔の事だが)「海の中の様子が見えるのかな?」

な、訳はありません。

ただの暗いトンネルを通り抜けるとそこはもう本州。

もっと感慨深いものかと思っていたけど、思ったより普通だったというのが正直な感想です。

 

以上で36年前、1979年に私が行ったツーリングの「九州編」の終了です。

長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

ずいぶん昔の出来事ですが、あの頃のツーリングはこんなだったというのを少しは感じていただけたでしょうか。

また機会があればほかの地域のツーリングも書いてみたいですね。

  えっ、「長すぎて読むのが大変だからもういい!」

    まあ、そう言わずにおつきあいくださいね。


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2015年10月14日 水曜日

四国ツーリングで行った場所は?

先週、出張で四国、愛媛県の松山に行ってきました。

今回が生まれてから二回目の四国入りになりました。

この前行ったのはなんと39年前、昭和54年1979年の夏でした。

東京から長野を経由して京都・大阪・神戸と走ってから四国に入り、その後九州を一周して再び本州に戻り、山口、広島と走ってから日本海側を通って再び京都へ、その後静岡、神奈川と回ってから東京に戻るという、三週間、野宿ツーリング、総費用5万円の西日本一周ツーリングでした。

前の年に原付で東日本から東北一周したのと合わせて、北海道と沖縄以外の日本一周ツーリングの一環でした。

このツーリングに関しては以前にも少しだけ簡単に書いた事がありましたが、今回初めて載せる写真もあって少し長くなりますがその四国ツーリングについて書いてたいと思います。

 

前の年に原付に乗り始め、その年の12月に中型二輪免許を取得、乗っていたバイクはホンダのホークでした。

「やかんタンク」「座布団クッション」と揶揄されることもありました(私のホークは後期型なので角タンクでした)が、その分長時間ツーリングには乗りやすいバイクでした。

テントは無し! タンデムシートの振り分けバッグには工具やスペアパーツ、キャリアに寝袋と着替えだけ乗っけての野宿旅です。

荷物の上に載せた赤い寝袋が、ほかのライダーに「私は泊まりのツーリングだぞ!」とアピールしていました。

ゴムベルトで留めているコロナのタンクバッグやリアの泥よけが当時のツーリングバイクらしさを醸し出していますね。


 

晴れていれば神社や公園などで星空の下で、また無人駅や大きな駅(青森、秋田、京都など)や街道沿いの24時間コインスナックなどで寝袋に潜り込んで眠りについていました。

 

四国へは、京都、大阪と走ってきて神戸でフェリーに乗るつもりだったのに通り過ぎてしまったので明石のフェリー乗り場から淡路島に渡りました。

この時が生まれて初めてのフェリーだったので、「バイクで船に乗る」「鉄板の上を渡る」というので非常に緊張しましたが、乗ってしまえば「なんだこんなものか」と、それ以降何度もフェリーを利用するようになりました。


 

初めて上陸した淡路島。

福良の海岸。


 


 


 

食事も観光もせずに、バイクでびゅーんと走ればすぐ端っこまで来てしまう小さな島。

小学校で習った時には大きな島だと思っていましたが、バイクで走ると「日本はけっこう自分で全部回れるぞ!」と感じるようになりました。


 

ふたたびフェリーに乗って今度は初めての四国、徳島です。

走っているクルマはみんなドアミラーでなくフェンダーミラーでした。


 

徳島のフェリー港に着いたのは夕闇もすでに暗く暮れかかった時刻でした。


 

この時フェリーから降りたバイクは三台。

ホンダCB750KとSR400、そして私のホークです。

もう日も暮れて暗くなってきたので野宿する場所を探すのも大変そうでした。

それに一緒になった二人のライダー、名古屋のCB750Kさんと大阪のSR400さんと一緒にどこかに泊まろうという事になりました。

しかしちょうどその日は徳島県最大イベント「阿波踊り」の真っ最中の日でした。

当然こんな日のこんな時間に空いている宿はなく、途方にくれるライダー三人。

「こんな時は地元のタクシーの運転手に聞くのが一番。 どこか空いている宿はないか、それに交渉までお願いするのがいいだろう」という事になって港に停まっていたタクシーにお願いします。

何軒か電話してくれるもほとんど全滅状態。

そんな中ようやく一軒だけ「部屋は空いてないけど困っているようだから布団部屋でよければ泊まらせてあげるよ」と言ってくれた民宿が見つかりました。

小躍りした私たちはタクシーの後にバイク三台繋がって隣の小松島港の民宿「みはらし」さんに泊まることが出来ました。

当然夕食など用意してもらえないので、ライダー三人でその辺の定食屋に繰り出し、はじめてあったばかりの人間ですが、そこは三人とも「バイクでの旅好き」という共通の話題で夜がふけるまで盛り上がっていました。

結局用意してくれていた布団部屋にもぐり込んだのもかなり夜が更けてからだったような記憶が、、、あまりありません(笑;

 

翌朝、それぞれ向かう方向がばらばらの三人、三台。


 

一緒に写真を撮ってお互いの安全を願いながら手を振って走り去っていきました。

当時のツーリングバイクには、今のようなハードのバニアケースを乗せている人はほとんどいなくてバッグに荷物を積んでいました。

そのかわりコロナのタンクバッグは定番でしたね。


 


 

私は特に走るルートは決めていませんでしたが、せっかく海に囲まれた四国に来たので出来るだけ海岸線に沿ってそれぞれ突端の岬を回ることにしました。

徳島から左手に海を眺めて半時計回りに走ります。

室戸岬へ向かう国道55号、「コント55号」が流行っていたのでこの標識がうれしくなって撮影したのかな。


 

1970年代当時のツーリングは便利さが今とはだいぶ違います。

カーナビなんてものは当然ある訳ないので、頼りになるのは全国版の日本地図とクルマ用のコンパスだけ、それに加えて重要なのが「野生の勘」。

これで「徳島から南の方に行けば高知県」ていう具合に走っていきます。

当時はタンクの上のコロナのツーリングバッグはお約束の必需品で、この背中にある透明ポケットの中に地図を入れて信号待ちで停まるたびに道路標識や案内板を頼りに現在位置と行き先をチェックしていました。

天気予報もスマホで雨雲レーダーをチェック、という訳にはいかず、雲の形や流れかた、肌に感じる湿度で予報していました。

 

ここは途中で休憩したどこかの国民休暇村です。

外車のスポーツカーが珍しかったんでしょう。


 


 

 

今回の「四国編」では32枚の写真を掲載していますが、撮影好きな私なのでこれでもかなり撮ったほうです。

今のようにデジカメがあったらたぶんこれの10倍以上撮影していたことでしょう。

カメラも銀塩フィルムですから、フィルム代・現像代・焼き増し代なども高くて、デジカメのように「いいやとりあえず撮っとけ!」的にいっぱいの写真を撮ることは出来ませんでした。


 

 

「室戸岬」には無事に到着しました。

御厨人窟に続く弘法大師修行之処


 

「おさご」という絶世の美女にまつわる伝説のある「ビシャゴ岩」にて。

バイクから離れて観光するときは貴重品の入ったタンクバッグを肩に掛けていくのも当時の定番です。


 

そして室戸岬の標識の前でバイクと記念撮影。


 

 

その後はふたたび海岸線に沿って走りやっと高知市街に到着しました。

室戸岬から高知市街へは大きな国道に沿っていけばいいので楽勝でした。


 

宣伝が描かれた「とでん」(たぶん当時は今と違ってシールでのラッピング装飾じゃなかったのかも)に出会いました。


 

東京の「都電」ではないのですが、ここ高知県では土佐電鉄の電車なので略して「土電(とでん)」、あるいは「土佐電」と呼ばれていたそうです。

高知市から足摺岬までは海沿いの大きな国道はないようですが、なんとかたどり着くことが出来ました。


 


 


 

その後はどこをどう走ったものか、記録が残っていません。


 

こういう時、今みたいにGPSロガーがあれば現在位置やルートが記録に残せるので便利なのですが、そうもいきません。

町ともいえないような小さな集落のようないくつかを過ぎた頃にはとっぷり日も暮れてきました。

段々その集落の明かりすらなくなり、あたりはバイクのヘッドライトが照らすぼんやりした丸い輪っかのところだけがぼぉーと見えています。

どれくらい走ったでしょうか、前方先の方の小高い丘の上に明かりが見えました。

「とりあえずそこまでいけば野宿出来る!」そう思って山道をくねくねと登っていきました。

だんだん明かりが近づいてきましたが一つだけしか見つかりません。

それでもようやくたどり着いた先には一軒の建物がありました。

でも、それは無人の電波の中継所だったのです。

当然誰もいません。

いくら無人の場所だからといって、こんな山の中で野宿するのはさすがに私も怖すぎます。

 

来た道を引き返して、とにかく人間の住んでいるところ、人肌のあるところへ向かおうと必死です。

そしてどうにか人里に降りてきて見つけた町の中、野宿出来そうな場所ならどこでもいいと思い、広々とした場所で野宿しました。

この時から私にとって四国の印象は「山深い自然にあふれた島」というものに固まってしまいました。

今になって思うのはこの日は夕食に何か食べたかどうかまったく覚えていないという事です。

翌朝、明るくなって起きて周囲を見渡してみると、どうやらそこは宇和島かどこかの神社のようでした。


 


 


 


 

この段階では地図で見ても現在地を把握する事ができません。

そこで四国内のツーリングはここまでにする事にして九州行きを目指しました。


 

八幡浜で見つけたフェリー乗り場で四国から九州の臼杵に渡り、この後は九州ツーリングとなりました。


 


 

 

そして無事に九州に上陸出来ました。


 

以上が私が39年前に行った四国の思い出です。

阿波踊りも見ず、観光らしい事もしなかったのですが、それでも「四国」という地を体験したつもりになっていました。

今だったら高知や四万十川、それに松山などまだまだみどころがたくさん詰まった四国を堪能出来たと思います。

今回、40年近く前に原付と中型バイクで青森から鹿児島まで野宿ツーリングをした際の「四国編」を書いてみました。

今後、「九州編」「西日本編」「東北、原付編」などを書くかどうかは未定です。

今の旅好き、ツーリング好きの私の原点といってもいい懐かしく、そして貴重な思い出です。


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2013年10月6日 日曜日

歴代のバイクたち

ブログのタイトル画像を変えてみました。

とってもにぎやかになっちゃいましたが、ここに写っている8台のバイクは、いずれも私が乗っていたバイクです。

 

■ホンダ CB50JX-1

20歳の時に最初に乗ったのがこのバイクです。

生まれて初めてのエンジン付きの乗り物でした。

手に入れてから3ヶ月後に、東京から二週間かけて日本海側-青森-太平洋側と東北を野宿しながら回りました。

燃費はどんなに悪くてもリッター60kmを下回る事はなく、当時70円台だったガソリンでとってもエコなバイクでした。

でも6.3馬力のエンジンは峠ではローギアでもなかなか登らず、エンジンを冷ますためにアルミの洗濯バサミを付けたり、エンジンやマフラーに缶ジュースをかけたらどちらも糖分で黒こげになってしまいました。

 

■ホンダ HAWK CB250-T

原付免許を取った1年後、大きなバイクに乗りたくて中型二輪免許を取って乗ったホークです。

学生だったので車検の必要な400ccホークⅡではなく250ccの方です。

座布団シート、オヤジバイクと言われて若者の人気は今ひとつでしたがとっても素直で乗りやすく、長距離ツーリングにはぴったりでした。

東京から中部、近畿、四国、九州と三週間の野宿ツーリングでは、自分で修理した三回のパンクこそあったもののバイク自体は快調でした。

上の写真は手放す最後の頃で、今のハーレーに通じるサドルケース、リアキャリアのツーリング仕様です。

ハンドルに方位磁石とマップランプ、コインホルダーがありますが、それが進化してバイクナビ、走行ビデオ、ETCカードになったんですね。

 

■ホンダ XL250S

(私にとっては)大きくて早いバイクに乗るとスピードの怖さを感じて、かえって自分でマシンをコントロール出来るオフロード車に乗りたくなりました。

当時流行っていたホンダの「23インチのスニーカー」です。

これで河原でウイリーの練習したり、まだまだ未舗装路があった埼玉、長野、神奈川などの林道を走り回りました。

雪や雨が降るとかえって走りたくなっちゃうんですよね。

 

■ホンダ HAWK CB250-T

オフ車も楽しかったのですが、やはり仲間とのオンロードでのツーリングにはロードバイクでないと一緒について行くのがやっとなのでもう一度オンロード車に乗りたくなって、買ったのがまたまた今度は中古のホークです。

このバイクの運転のしやすさが私には心地よかったんです。

角形ウインカーにナポレオンミラーは前のホークの頃からのお約束です。

前のホークは長距離仕様にしていましたが、写真はまだアップハンドルですが、この後でチョイワル風にコンチハンにロケットカウルにしていました。

 

■ヤマハ YZ80

正確に言うとこのバイクは私のというより仲間との共同購入・維持バイクでした。

公道用ではないので休みの日にコースで遊ぶのにちょうどよかったですね。

Gジャンの下にパッドを付けて走ってました。

 

■カワサキ KR250S

250ccのレーサーレプリカ時代だった当時、仲間がヤマハ(RZ250)、スズキ(ガンマ)、ホンダ(NS250)とどんどん乗り換えっていったのにつられて、人とは違うKR250を選びました。

男カワサキのライムグリーンにあこがれたというのもあります。

タンデムツインという他に類をみない構造にも惹かれました。

信号ダッシュで気を抜くとスクーターのおばちゃんにも抜かれてしまいますが、7000から1万回転まで回すと豹変するすごいバイクでした。

革ジャン着て粋がって走っていたら、親切な青い制服のおじさんからサインを求められ、赤いチケットもプレゼントされちゃいました(爆;

 

■ヤマハ ドラッグスター250

KR250はけっこう長く所有していましたが、結婚して仕事も忙しくなったので乗る回数が減ってきたのを機にバイクを降りていました。

しばらくのブランクのあとで、再び50歳間近でリターンしたバイクは、今まで乗った事の無かったジャンルのアメリカンタイプのバイク。

大きな車体のはもう体力的に無理だろうと思って250ccをチョイス。

でも高速道路や峠を走って、それに久しぶりのタンデムではパワー不足でどうにも満足出来ず、新車購入一ヶ月でディーラーにドラスタ400を発注。

でも納車に二ヶ月かかると言われ、うーん待ちきれないです。。。。

 

■ハーレーダビッドソン FLSTC ヘリテイジ・ソフテイル・クラシック

買う気は全然なかったのに、冷やかしで行ったハーレーのディーラーで一目惚れ。

家の近くに二軒あるお店のもう一軒に行ったその日に、なんと契約のハンコをポーン!

それから教習所に通って12時間の教習で免許を取得。

バイクに乗り始めた頃には絶対自分には縁が無いと思っていたハーレーのオーナーになりました。

乗り出してから5年半、4万3千キロを走り、二年連続での北海道ツーリングを初めとして年間50回のツーリングの6割以上はタンデムで楽しんでます。

 

 

こうやって振り返ってみると、ホンダ、ヤマハ、カワサキと国産バイクはスズキ以外は乗っています(スズキに乗らなかったのはたまたまです)。

今はハーレー乗りですが、基本は「バイク乗り」です。

そんな事も思って、今までのブログ「ハーレーと趣味に生きるNEXT(http://harley-davidson.ddo.jp/next)」がハーレーに特化しすぎのような気がして、リニューアルをはかりました。

 

タイトルの画像、ちょっとごちゃごちゃし過ぎかなとも思うので、またしばらくしたら変えているかも。。。


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プロフィール

 

メカ好きおじさん写真

メカ好きおじさん

・40年前原付、中型二輪取得
・CB50で東北野宿一周
・250cc四国・九州3週間5万円野宿
・38都道府県制覇
・XL250オフ後、再度オンロード
・KAWASKI2スト最後に降りる
・16年ブランク後リターン
・50歳で大型二輪免許取得
・ハーレーFLSTCにペアライド中

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